NHKの朝ドラを観ていたら、主人公の母が『初恋』を歌っていました。
早速検索してみると、同じ村下孝蔵さん作の『踊り子』の方が良さそうだったので添付します(^_^;)。


しかし、小泉今日子さんは、主人公の母で昔アイドル志望という設定ですが、昔の映像を動画で観ると本物のアイドルですね(^_^;)。
1872年(明治5年)の山城屋事件(やましろやじけん)、陸軍省の御用商人山城屋和助さんが、陸軍省から無担保で借り受けた公金を返済できず自殺した事件。
(山城屋の借り出した公金は総額約65万円、当時の国家歳入の1%という金額)

山県有朋さんとの縁で御用商人となった山城屋さんは、軍需品の納入を一手に引き受け、莫大な利益を得て豪商となりました。
そのような関係から、山県さんはその見返りとして、山城屋さんから多額の献金を受けていたとのことです。
 そんな中で、山城屋さんに対し、陸軍の公金であった15万ドルを勝手に貸し付け、山城屋さんはその金を元手にして生糸相場に投資しました。
 しかし、この生糸相場が当時勃発した「普仏戦争」の影響で大暴落。
山城屋さんは破産寸前に…。
 そこで、山県さんは、その補填として、山城屋さんに更なる公金を貸し付けたのですが、山城屋さんは投資の失敗の穴埋めには使わずに、そのお金を持ってフランスに渡り、パリで豪遊。
 この山城屋さんの豪遊が当時パリにあった日本公使館の耳に入り、陸軍省が内部調査を始めたのが、この汚職事件が明るみに出たきっかけとなりました。
 陸軍省が調査を始めたことにより、このままでは自らの不正が明るみに出てしまうことを恐れた山県さんは危機感を覚えます(^_^;)。

その後、江藤新平さん率いる司法省による本格的な調査が始まることになり、山県さんから至急の返済を求められた山城屋さんは公金返済が不可能であったため、陸軍省内部で割腹自殺。その際、関係する帳簿と長州系軍人の借金証文類も焼き払われたため、事件の真相は解明されることなく、陸軍省会計監督長船越衛さんの処分をもって収束しました(ノ_・。)。

(1872年(明治5年)11月29日、山県さんに公金の返済を迫られて困った山城屋さんは、山県さんに罪が及ぶのを恐れ、証拠書類を焼き捨てて、陸軍省の一室で割腹自殺しました。
一説には山県さんが山城屋さんに自殺を迫ったとも言われています。)
 
山城屋さんの自殺により、事件の真相は闇に葬られた形となってしまい、一時辞職しましたが、山県さんは罪に問われることはありませんでした。
これが「山城屋和助事件」の概要です。

しかし、この山城屋事件の翌年に江藤新平さんが下野しなかったら、
佐賀の乱で斬首されなかったら、山県さんは政治家を続けられなかったかもしれません。
事務処理能力に優れ、外国語にも精通し、学者肌で清廉で明朗だった江藤さんを、山県さんや大久保利通さんみたいな裏工作タイプは嫌っていたみたいですし・・・(ノ_・。)。

特に、大久保さんは、自分と同じくらいの能力がありながら人格的に優れ、人気のある江藤さんをかなり嫌っていたようです(ノ_・。)。
ですから、佐賀の乱後に、江藤さんを斬首(その後、さらし首)にしましたが、
この時、刑法上では斬首などはなくなっていたのです。(江藤さんが民主的な司法制度を整えていた)、
しかも大久保さんは江藤さんの裁判の様子を日記に「笑止なり」とか書いていますし・・・(ノ_・。)。

その後、政治家として生き残った山県さんがした事

日本は、公務員の受験資格に年齢制限がある国ですが、
世界と比較して見ると、就職に年齢差別を禁止している国では公務員の受験資格に年齢制限がない国が多いです。
いつからこのような規則ができたのかと調べたところ、1899年(明治32年)の山県有朋内閣時代の文官任用令の改正以降に厳格化されたみたいです(ノ_・。)。

その理由は、
当時、政党が政治力を持ち始め、「議会だけでなく、官僚として文官や武官にまでチカラを発揮しかねない」と危惧した山県さんが、
各省の次官などの勅任官(高級官僚)に政党員が就かないように、文官高等試験に合格していない人が任用されないように改正し、文官高等試験の受験年齢制限を設けることでおじさん政党員の受験を阻止したみたいです(ノ_・。)。
それで今も30代前半までに受験年齢が制限されたままということです。
勅任官ではなく、新任官(大臣、知事、大使、公使など)は文官高等試験に合格していなくても就けるのは今も同じですね(^_^;)。

その他に山県さんは、1900年(明治33年)に軍部大臣現役武官制を制定し、陸海軍の大臣に現役の大将と中将しか認めないようにして、政党員を完全に締め出しました。

さらに、同年に治安警察法を制定し、「結社・集会の届け出の義務化。軍人・警察官・教員・学生・婦女子などの政社加入と政治演説集会参加の禁止。労働者や小作人の団結と争議行為の制限と禁止」など、だんだん硬直化、全体主義化への布石を打ち始めています(ノ_・。)。
1890年(明治23年)の教育勅語の時の総理大臣も山県さんですから、軍国主義の生みの親みたいな方ですね(ノ_・。)。

山県さんが亡くなられた時、『死もまた社会奉仕』と当時新聞記者の石橋湛山さん(後の総理大臣)が評したとのこと。
江藤新平さんみたいな方の出現を待ちたいものです(^_^;)。
アスカルロード!

『秋瑾 火焔の女』(山崎厚子さん著)

映画で秋瑾さんに興味を持ち、とりあえず一冊読んでみました(^_^;)。
第一章1875年~
第二章1898年~
第三章1904年~
第四章1905年~
第五章1906年~1907年
と、生れてから処刑されて亡くなるまでを5章に分けて書かれています。
中国近代史上で最も著名な女性革命家として、現代の中国になってからは千古の功臣として顕彰されているとのことです。
秋瑾さんの故居は、浙江省重要文化財に指定され一般に公開されているみたいです。
その故居内に飾られているのが、上に添付しました日本留学時代に撮った写真です。

彼女の思想は、今の中国を理想としたものか?と言えば、NOだと思います(ノ_・。)。
(もし彼女が生きていたら、台湾に渡っていただろうと思います)
まず、欧米並みの女性の地位の向上、男女同権を主眼にしていました。
当時、多くの中国人女性(2億人)は、教育を受けることができないので、文字が読めないのが一般的でした。
また、纏足などの古い風習や儒教的な男尊女卑の中で縛られて生活していたのです。
遊女などは纏足で歩けなくされ、客をえり好みしないように視力までも奪われていたのです(見た目には、普通のきれいな目のままで失明させる手術をする)。

日清戦争で、昔は朝貢していた日本のような小国に負けるまでになったのは、母なる女性に教育がなされないので、その子どもたちの知力が不十分だから、愚かしい政府が、そして、役人が跋扈するのだ。

秋瑾さんは纏足を拒否しました。また、学問も科挙を受験したら最上級に合格するくらいに習得し、武芸も熱心に習います。
女性として身を飾ることには興味がなかったようですが、その美貌はどこへ行っても目立ったみたいです。孫文さんも、人妻ではあるもののぜひ膝を交えてみたいとあらぬ想いに駆られたようですし・・・あくまでこの本での話ですが・・・(^_^;)。

ブリタニカ国際大百科事典には、『女性として初めて日本に留学し・・・』と書かれていましたが、この本には、秋瑾さんよりも前に実践女学校に入学し卒業している中国人女性や一緒に学ぶ中国人女性たちが描かれていますから、真偽はどうなのかなと思いました。
でも、海外へ留学する中国人女性の先駆けであることは間違いないと思います(^_^;)。

孔子さんの『女子と小人は養い難し』『女子は才無きを以て徳となす』の言葉を取り上げ、
この思想がわが国の女性を弱いものにしたのです。私は孔子を好みません』
のセリフは、なかなか良いですね。
論語は仁徳者なら間違いないと思います。
しかし、そうでない者が、印籠のように振りかざし、歪んだ親子(人間)関係で、離れなければ精神的な健康(自由)はないのに、孝行すべしと謳われて離れられず、精神的に病んで行く人々の群れを生んできた罪もありますから、秋瑾さんの嫌いだと言い切れる強さは清々しいと思います(^_^;)。

国が独立し安定すること。国民が自由を享受できるようにすること。
一人一人の自立には、精神的な自立とともに、経済的な自立も不可欠だと思いました。
(秋瑾さん自身も名家の生れで、資産家の妻でもありましたから・・・(^_^;))



『秋瑾~競雄女侠~』
秋瑾(しゅうきん)さんは、中国の婦人革命家で詩人。
1875年に生まれ、1907年に31歳で処刑され亡くなっています。
中国人女性として初めて日本に留学し(実践女学校)、中国革命同盟会に入りました。
1906年、日本の留学生取締りに抗議して帰国。
紹興で教師をしながら革命運動に従事。
同郷の徐錫麟さんと光復軍を編成し、挙兵を計画しましたが、露見し捕らえられ処刑(斬首)されました。
処刑される前に、『秋風秋雨、人を愁殺す』の言葉を残したとされます。
(「ブリタニカ国際大百科事典」と、角川書店の「世界史辞典」参照)


出演は、クリスタル・ホアンさん。デニス・トーさん。
監督は、ハーマン・ヤオさん。

短いながらもよく描けていたと思う。
アクションシーンがやや多いのですが、許容範囲でした(^_^;)。
当時、中国よりも女子教育が進んでいた日本に留学しますが、日本を大げさに描くことがなく、外国の映画には珍しく忠実に描写していたと思います。
(映画の中でチラッと早稲田大学の文字が出て来ます)
この映画を見ると、秋瑾さんの事がもっと知りたくなると思います。
中国には彼女の像が建っているみたいですので、今でも人気があるのでしょう。
民主主義の国から見たら、今の中国もまだ抑圧的な国に思えます。
真の革命はこれからかもしれませんね(^_^;)。
その意図がこの映画に込められているのではないかと思いました。

上が秋瑾さん本人、下が秋瑾さんを演じるクリスタル・ホアンさん
和服での撮影ですね。
アスカルロード!
アスカルロード!
『天地終始なく、人生生死あり。
安(いづ)くんぞ古人に類して千載青史(せんざいせいし)に列(れつ)するをえん。』
現代語訳『天地は始終がなく(世界は永久不変であるが)、人生には生死がある(人間は生まれても必ず終わりが来るものである)。なんとしてでも古人の仲間入りをして千年の後までも名を歴史上につらねるようにしたい。』

江戸時代の歴史家・思想家・文人の頼山陽(らいさんよう)さんが14歳の時に書いた漢文の抜粋です。

まだ何者でもない時から、名を残す事を強く意識し、多分、そうなるだろうと予測し日夜勉学に励んでいたようです(^_^;)。
著作は、幕末の志士たちによく読まれたばかりか、現代も渡部昇一さんに現代語訳されたりしています(考古学が未成熟な江戸時代の古代史の本を現代語訳して真実だと思ってしまうのは弊害かもしれないのですが・・・(ノ_・。))。

このように書くと、頼山陽さんは素晴らしい人のようですが、

直木賞作家で経済学者でもあった南條範夫さんの『細香日記』(吉川英治文学賞受賞作)を読むと、とんでもなく狡猾でするい男の側面が描かれています。
(美貌と非凡な学才に恵まれた江馬細香さんを妻にと願い出るが断られる。その後、学問上の子弟関係から愛人関係へと発展。幸せにはしてあげられないと知りつつ欲望には勝てず、細香さんの容色が衰えるまで愛人として離さなかった(ノ_・。))

何者でもない時は、他者から見たら誇大妄想に映るかもしれませんが、大きな目標を相手にしていないと、世の中の常識や他人という荒波に揉まれているうちに目標を見失い、訳がわからないうちにお墓の中に入ることになるかもしれないのが世の常なので、紙にでも目標を書いて自分を叱咤激励しないと落ち着かなかったのだと思います(^_^;)。
Slow and steady wins the race.
追伸、『細香日記』はお勧めです。
2013年4月20日土曜日の自宅での勉強時間は、約5時間。
次回分からは「なう」に書き込みます(^_^;)。

『鴎外の知恵』(出口汪さん編集超訳)を読みました(^_^;)。

鴎外さんの言葉をいくつか抽出しますと、
『計画していることを人に話すな』
『取るに足らないことは人並みにしておけ』
『打ち明け話はほどほどに』
『最も恐ろしい猛獣は社会の中に暮らしている』
『病人は看護の専門家に任せよ』・・・などです。

森鴎外さんは、
東大医学部から陸軍の軍医総監(軍医の最高位)になり、小説家としても夏目漱石さんと並ぶ明治の大文豪。
しかし、遺書の一部を書き出すと、
『墓には「森林太郎の墓」という以外、一字も彫ってはいけない。
軍医総監でも文豪鴎外でもなく、私は一人の森林太郎として死んでいきたい。』とあります。

この『鴎外の知恵』や『森鴎外の知恵袋』を読むと、その含蓄の深さとともに、
なぜあのような遺書を書いたのかがなんとなくわかるような気がします。

彼が教訓としていた言葉からは、鉄仮面でも付けて生きているかのような生き辛さを感じます(ノ_・。)。
胸襟を開かない(開けない?)もどかしさと苦しみ。
本来の自分として生きられなかった。
世の中で認められているのは自分であって自分ではないという想い(ノ_・。)。

ある哲学者は『作家は明朗快活になれないから小説を書くのだよ。明朗快活な人は小説などは書かないからね。』と言いました。
実際は、
『作家は本来の自分の個性を全開にして生きられないから小説を書く』
あるいは、『理想的な人間の姿(生き方)があるのだが、現実の自分はそのように生きていないと思うから小説を書く』のではないかと、森鴎外さんの『鴎外の知恵』や『森鴎外の知恵袋』から思いました(^_^;)。
2013年4月18日の自宅での勉強時間は、約3時間15分。

Queenさんの『Bohemian Rhapsody』
初めて聴いた時、ちょっと驚きました(^_^;)。
良い絵画を見た時に近い衝撃みたいなものを感じました。
でも、今は、(聴き過ぎて飽きたのか?)どこか自分の感性と違う世界のような気がしています(^_^;)。
たまに聴くのが良いのかもしれませんね。