まだ産まれてきてもないけど、大学時代からの親友はすごーい教育ママ。
彼女のブログに触発されるんだな、これが。やはりインターに四歳くらいからはいれた方がいいのかしら、、?
もしくは、モンテッソーリ。ただ、かなりお高いのよね、学費が、、。広尾にあるから、連れてはいけるけど。
以下とある方の文章を抜粋。



0-6歳が最も大切:環境からの吸収力は大学生の100倍以上もあるのに、今の教育は、大学に莫大な投資をする一方で、幼児教育はほったらかし。教育環境への人的・経済的配分が反対。例えば、大学生なら3年間留学して一生懸命勉強して外国語でコミュニケーションできるようになるが、同じ期間 0-6歳児が外国で過ごせば学校へ行かなくても母国語並みに習得する。そのような高い吸収力が、言語だけでなく、思いやり・創造力・数学の理解など全ての分野にあるのが0-6歳児というとても貴重な時期なのだ。この時期に、その人間の人格の大半が形成される。

モンテッソーリメソッドの家でもできる環境づくりとして、子どもサイズの本物をそろえると良い。お手つだいや自分のおやつの配膳・片付け。踏み台と小さい本物の道具があれば、4歳児だっておやつも兄弟の分まで自分でつくる。

モンテッソーリメソッドは、自己形成ができる学習。数学的概念を体験させる教具にも富んでいる。見た目と寸法の同定(はめこみ円柱)、抽象的な数字と具体的な数の概念の一致。数の概念は体験に裏付けられないと、抽象度が進んだ時に躓く。数多くの実体験を持つことが非常に大切。

人に自分で会いに行く、香りをかぐ、手で触れる ⇒ 実体験の量でその後の創造力が大きく変わる。実体験がないとメディアのイメージだけしか持てない。本物がわからない。例えばイスラムと聞いて、ピースボートでイスラムの人達に親切にされた子どもたちは、親切にしてくれたおじさんや仲良くしてくれた子どもたち、コーランの優しい響きや、おやつにもらったデイツの甘い香りをはじめに思い出すことができる。実体験がなく、メディアで報道される『テロ・紛争』のイメージでしか中東を描くことができない大人との、なんという差か。
大人の立ち位置を見直し、大人が主役の教育現場ではなく、大人は子どもの学びを促すファシリテーターと考えるようにしたい。小野寺さんの子どもさんたちは、2年に1回はピースボートでモンテッソーリ教育を受けるが、普段は公立の保育園。保育園では、一斉保育を行っている。地域の予算的にも先生の数も限られていて、どうしても先生が子どもたちをせきたてるようにして外に出して遊ぶ(部屋の中で過ごしたかった子もいるかもしれない)、部屋に入る前は一列に並んで手を洗う(出入りを一斉にするから、子どもにとっては待ち時間が長い)、出されたおもちゃで遊ぶ(自分で選択し、遊び、自分で片づける自由がない)など、よくある日本式の教育。先生はいつも一生懸命に走り回っていて、「はやくしなさ~い」「もうおかたづけよ~」と大声を出している。

モンテッソーリの環境では、6歳の子どもが小さな子どもを巻き込みながら自分たちで料理をしたり遊んだりする中、先生は見守りに徹していて、とても静か。パッと見、どこにいるかわからないほど。退屈そうな子どもが目についた時には、こんなのどう?とさりげなく、その子が関心を持ちそうな活動を提案することはある。小学校では、先生はきっかけを与えるだけ。子どもたちが興味に沿って自主的に調べ、博物館にフィールドトリップをするときも子どもが博物館員とアポをとって自分たちでアレンジする。中学生になるころには、社会の中での自分の立ち位置を実践をとおして模索しているので、高校生~大学生になるころには、ほっておいても自分の目的のために学び続け、行動し続ける存在になっている。
モンテッソーリの二つのテーマ。まず、「子どもが主役、大人は黒子」。大きな声で子ども達に指示を出す先生の姿はない。一見、先生がどこにいるのかわからないほど。先生は、指示を出すことでなく、ロールモデルとなることで子ども達の育ちを援助する。教室の中での一挙手一投足を子どもは見ていると考え、子どもの手本になるように行動する。例えば、「椅子を片付けなさい」と言ってまわるよりも、自分自身が座っていた場所から立ち上がる時、必ず丁寧に椅子をもとに戻したり、子どもに求められて何かのアドバイスを与えるときには子どもと対象物を妨げないように斜め後ろから小さな声で行ったりする。集中している子どもに話しかける必要がある時には、そっと肩に手を於いて、「時間が空いたら教えて」と声をかける。その大人の行動を子どもはしっかり見ていて、すべて真似するようになる。自分が夢中になって取り組んでいるときには邪魔しないでほしいのと同様、友達にもそのような時間があることを理解し、穏やかに思いやりを持ってふるまうようになる。年長の子どもが、年少の子どもに何か教える時も、見事に、その子の関心を邪魔しないように、さりげなくサポートすることができる子どもが多い。

子どもの持っているものを最大限に「引き出す」には、とにかく子どもをよく観察し、子どもにとってそのとき必要なものを、必要なだけ提供することが大切。褒美も罰則も、過度の期待もよくない。親はどうしても「医者になってほしい」「できれば優秀でありますように」「優しい子になりますように」と期待や想いをかけすぎてしまうもの。植物を育てるときを考えると非常にわかりやすい。ランダムに混ざったチューリップの球根のひとつを取り出し「ピンク色の花が咲きますように」と願ったり、ピンク色の水やりをしてもしかたがない。球根の生きる力を観察して、どの季節にどのくらいの間隔で植えるか、水やりの頻度やひあたりなど、育ちに必要な環境を整えることはとても大切。でもそれ以上にできることはない。大人の役割は、必要とされるサポートと環境を整えるだけ。思いを押しつけずに観察することが大切。

2番目のテーマは、子どもの自主性を育てること。日本は全員で同じことをすることをよしとする。木村さんより質問。そのような日本の環境で、自主性を持って育ってほしいが協調性も欲しい。一斉教育はしないモンテッソーリ教育の環境で、個々人が興味に即してそれぞれの行動をしていて、協調性は育つのか?

子どもたちは集中して自分たちの仕事に取り組んでいるために、内面からフルに満足している。他者へのサポートも、気づかいを持って行うことができる。オーケストラも、各奏者がフルに育っていない状態で「音をあわせて!」と言ったところでいい演奏にはならない。それぞれの育ちが完成した状態で、はじめて調和する。同様に、ひとりひとりの子どもの内的自立が完成した状態をつくってはじめて、社会の平和、共感力、共に動く力になる。

モンテッソーリ園を卒園してから一般の学校に行ったらどうなるか、との疑問が沸く。順応することができないのではないかと。でも現実は反対で、先生方に「どうやったらこんな子どもが育つのか?」と驚かれるような、他者への思いやりをもった振る舞いを自然に行う。クラスメートが給食の牛乳をこぼし、他の子が「いーけないんだ、いけないんだ」とからかい、その子が泣きだすしかないような状況で、さっと立ちあがって自分の雑巾を持ち「こぼしたら、ふけばいいんだよ」とささっと片づけてしまうような子ども。幼少時、自分でやりたいことを選び、自分で選んだことととことんむきあって夢中に取り組んだ経験のある子どもたちは、どんな状況でも自分で判断・決定し、自分の決定には責任を持つ。

今の時代で欲しい人材は、目の前の課題を解決するために自分で情報を収集し、人脈を作り、責任を持って行動にうつしていけるような人ではないか。戦争時に従順な兵士を育てたかった時代とも、高度経済成長期に労働者を育てたかった時代とも違う。それなのに、教育のありかたはその頃と大きく変わらない。今の教育を受けて育ち、社会に出ていきなり「あなたはどうしたいか」と聞かれてもわからない。小さな時から自分で選んで行動していれば、自分の人生を選べるのではないか。

大崎さんのお子さんのケースでは、NY国連本部勤務時代、近かったからという理由でモンテッソーリの小学校に通っていた。学年別のクラス編成や、カリキュラムがないことに親ははじめ、皆不安を感じていた。が、蓋を開けてみれば、どの子もNY州の共通テストで抜群の成績を収めていた。ティーンエージャーに成長された息子さんは、自分を持っていてみんなにやさしく子ども好き。思春期の葛藤も主なテーマは社会や親への反抗と言うよりも自己のアイデンティティの確立だったようで、文学や映画に没頭することで乗り越えたようだ。モンテッソーリ教育の成果かと思う。

モンテッソーリの学校に入れなくても、家でできることから始められる。まず「子どもサイズの本物」「自分でできた」をキーワードに、家を再度見渡してみて。家のいたるところに踏み台を置いて、親に助けを求めなくても棚のものが自分で取れるように。小さな雑巾・箒とチリトリを用意して、掃除ができるように。ジャーの形に配慮すれば2歳児にも液体の移し替えもできる。

異年齢の交流は地域で。今の親御さんたちは地域を知らずに育った人達もいる。どうやって地域で子どもを育てていくのかを考え、地域での子育てを推進することは大切。日本はマス教育でもよかった時代があった。地域があり、母親が専業主婦だった時代は、異年齢社会での人間関係や学び合いは、放課後に十分体験することができた。今はそうでないから、私達子育て世代が考えていかないと。

地域の子育てのケースとして、イタリアのレッジョ・エミリアがある。第二次大戦後にムッソリーニの全体主義を反省し、市民が子どもたちを財産として地域で育てようと始めた。プロジェクトベースの活動を見守る担任のほか、美術の専門家が入り、子どもたちの創造性を美的に表現させる。

日本では、「まちの保育園」がそれを体現しようとしている。去年、練馬区の小竹向原に1園できた。園にはカフェがあり 街の人たちも利用できる。代表者(松本氏)は、「保育や子育ては20年後の日本の未来をつくる大切な仕事」とし、関わる人達(保護者・保育者・教育者)の地位を上げたいと考えている。園の設備は特別な設計で、子どもたちを観察し、必要に合わせて形を変えていく。子どもたちの成長の様子は写真や映像で撮って親と共有する。総時間契約で子どもを預けられる(タイムカード)。親子に一番いい時間に合わせて園がよりそうという思想。カフェなどはグラウンド・レベルより1m低くなっていて、子ども達もジロジロみられている間隔は少なく、子どもたちの楽しい声が聞こえたり、雰囲気が伝わる程度に配慮してある。

レッジョ・エミリア創設者のローリス・マラグッツィの詩を紹介したい。子どもたちの100の言葉「子どもには百とおりある。子どもには百のことば・百の手・百の考え・百の考え方・遊び方や話し方・百いつでも百の聞き方、驚き方、愛し方、歌ったり、理解するのに百の喜び・発見するのに百の世界・発明するのに百の世界・夢見るのに百の世界がある。

子どもには百のことばがある(それからもっともっともっと)けれど九十九は奪われる。学校や文化が頭とからだをバラバラにする。そして子どもにいう。手を使わずに考えなさい・頭を使わずにやりなさい・話さずに聞きなさい・ふざけずに理解しなさい・愛したり驚いたりは復活祭とクリスマスだけ。そして子どもにいう。目の前にある世界を発見しなさい。

そして百のうち九十九を奪ってしまう。そして子どもにいう。遊びと仕事・現実と空想・科学と想像・空と大地・道理と夢は一緒にはならないものだと。つまり、百なんかないという。子どもはいう。でも、百はある。」

松本さんは「まちの保育園」アライアンスも設立した。来年は、全国に4つの「まちの保育園」ができるそう。近所の小学校からも同調したいとの声が掛った。小学校も地域にひらいていくということに挑戦したい、と近所の校長自ら声をかけてきた。今後は、専門学校やワタリウム美術館との協力で、教師を育てる機関へ発展させて、事業のサステナビリティを担保したいとのこと。

レッジョ・エミリアでは、町の予算配分の優先は、文化財の保護と教育。日本は、主要国に於ける公財政教育支出の対GDP比がOECD中最下位。学校教育費の対GDP比、日本はGDPの4.3。アメリカは 2001-2011に 33伸長・英・仏も大きく伸長する中、同期間に日本の教育予算は増えていない。

休憩をはさんで、後半は3-4人の小グループになって前半の対談に纏わるそれぞれの体験シェア。私の参加したグループでは、学校に働きかけて国際教育を行ったり、腸詰実習をしたりというお母さんがいらっしゃる一方で、学校がオープンじゃないので何もできないとおっしゃる方も。公立の方が自由度が高いのではないか、とか、ご自身が子どもの頃に私立に行ったので近所に友達がいなかったので、地元の学校に入れて、地元の関係をつくりたい。また、私立に行かせると、価値観や触れる範囲の人が偏るのではないか、などの話がつきませんでした。

その後はグループのお話や子育て体験のシェア、また小野寺さん・木村さんへの質疑応答。
いま20代のお嬢さんを育てられたお母様から、子どもに手をかけ過ぎることについての問題が提起されると、小野寺さんからも愛ある放任の大切さのお話。モンテッソーリは子どもの行動を褒めすぎない・選別しない。たとえば、子どもの描いた絵は壁にかざらない。世界中の子どもが、10歳くらいになると「ぼくは上手じゃないから」と描くのをやめてしまう。本来、表現活動と言うのは「作りたい」「描きたい」と内なる欲求から行うもの。親が「これは上手だね~」と大人の目線で選んだ絵を壁に飾ることは、「あ、そういう絵が大人に評価されるのか」と子どもに考えさせてしまうという意味で、それなりにリスクをともなうものであると理解していたい。子どもの内なる欲求を外からの評価で規制してしまうことを、とにかく避けるようにしたい。親というものは、子どもが育っているのに自分が育てている気分になってしまう。ポジティブな言葉かけは大切だが、「いま、とても集中して描いていたね~」「たくさんの色を使ったね~」というふうに、子どもの存在そのものを肯定する、行為を肯定するが、結果に優劣をつけないことが大事。

さらに、見守りと危険な行動の制限のバランスをどうすればいいのか、とのご質問。小野寺さんからご自身がモンテッソーリのベテラン教師から受けられたアドバイスの紹介。何か上手くいかなかったら、自分や子どもを責めるのではなく、とにかく「環境を整える」。Ex.「危ないからやめなさい」というのを減らしたかったら、危なくない環境にする。スーパーで泣き続ける子どもに「どうしてそんなに泣いて、私を困らせるの」と言うのではなく、そもそもその時間にスーパーに行かずに済むような方法を考える。問題があるときに、その原因が自分や子どもの中にあるとは決して考えないこと。「自分で思っているほど、子どもにとってあなたは重要じゃない」と言われたとのこと。

やってはいけないことをどうやって躾けていけばいいのか?との質問。国際モンテッソーリの考えかたには、「自由と責任のバランス」ということばがある。小さな子どもに「どこまでも自由」は大冒険すぎる。枠やルールをあらかじめ決めて、「この枠内でなら、なにをしてもいいんだよ」と伝えることは、子どもにも安心感を与える。枠が分からない子どもは、「どこまでやってOKか」を自分で調べるために、わざと親が不快になるような行動をとったりもする。そんな風にして不適切にふるまっているときに「そんなことしちゃだめ」としかる形ではなく、なるべく別の機会に、できれば子どもの行動を肯定する形で伝える。(ex.「今日はおばあちゃんの家で、立ち歩かずに最後までご飯を食べてくれて、ママ嬉しかったな、どうもありがとう」)その場で注意をするときは、意味のない交換条件をつけない。報酬もつけない。理由がわかるように伝える。絶対的にダメと抑えつけるのはダメ。「pre-negotiated consequences:あらかじめ交渉されていた結果」であることが大切。枠組みとルールが子どもにわかるかたちで、普段から説明されていなければならない。

参加者の方から、環境や社会の変化にどう対応するのか、という課題提起。外で缶けりも難しい・連絡網もない コミュニティがなくて育てるのが大変。どこにそういう場所がつくれるのか?公園がまだお母さんと子どものため、地域のためになっていない。地域の高齢者が植物を植えたり、防災で利用したり。その中でも木に登ってはダメなどの制限ができているが、そんな不自由な場所でいいのか。公園を活かして、人と人が直接触れ合う場にできないか。

対談者のお二人もGMNで何かを作れないか?と構想されているとのこと。GMNで小学生の夏休みプログラムを作れないか、また、例えば地域のプレイステーション構想もある。地域の人が遊びを見守る・大人の関わりも見直す、ちょっとの時間を子どものために使えないか。また、女性の金銭に換算されない労働の価値を高めたい。家事労働・地域との関わりなど。

成長過程での敏感期について。どの生物にも敏感期がある。○○について集中的に学習して適応できるようになる時期。例えば、2歳半から3歳半でどの子どもにも必ず訪れる「秩序の敏感期」。「この世界はこうなっているのか」と自分なりに世界の秩序を見つけていく時期で、この時期の子どもにとって、環境の中のあるべき場所にあるべきものが収まっていることがとても大切。たとえば、来客があり、普段父親が座っている椅子に他の人が座っていると「それはパパのいす~!」と癇癪を起して止まらない。普段、靴下をはいてからズボンをはいているのに、その順序が逆だと気に障ってしかたがない。ごみ箱の位置が変わったら「ここじゃない~!」と激怒。なにもワガママだからそうなってしまうのではなく、成長の大切な一過程なので、この1年はそういう時期だと思って、とことん寄り添ってほしい。そうすることで、子どもの生涯のしっかりとした秩序感が守られる。・・・というようなことは、知っていれば簡単なことなのに、そのことを知らないと子どもを抑えつけてしまうようなことも起こる。今は核家族化の中で子育ての伝承がされない。GMNは、モンテッソーリなどの理論的裏付けがある中で、新しい子育ての知恵を共有する場としたい。母親だけで育っていくのではなく、先生の友達がいらしたら、ぜひ先生たちもひき込んで欲しい。