つい先日、日頃から懇意にしている「熊ちゃん」という友人と地酒を飲みました。彼は同業他社なのですが、同い年で右寄りなので感性が近く、公私両面で日頃から非常に親しくしている方です。
熊ちゃんは酒の肴に、こんな話をしてくれました。
「そう言えば、この夏、知覧へ行ってきましたよ。」
おー♪ 永遠のゼロ?
「そうそう。しかも妻を置いて一人旅w」
マジで?相変わらずですなw
「前職の同僚が向こうに移住してるんで、彼を訊ねるついでに。3日間の日程、ずっと彼に付き添ってもらって案内してくれました。」
知覧はどうだった?
「凄かったです。もう言葉に表せないくらい。強烈に感動しましたけど、感動って言葉も違いますね。もう涙無しでは語れないくらいのインパクトでした。」
へ~。私もずっと行ってみたいんだけど、休みと金が・・・w
「いつか行くと良いですよ。たぶん丸山さんの性格だと、号泣しちゃうでしょうけどね、確実にw」
あぁ、遺書のこと?
「ええ。読めない読めないって言いますけど、本当に読めませんでした。というか私の場合、建物の入り口というか、エントランスに設置してあるモニタで一杯一杯だったんですけどね。8mmフィルムにナレーション付けただけの、たったそれだけの簡易な映像が流れてるんですけど、もうそれを見ただけで!体がわなわなと震えてくるんですよ。」
へー・・・・。
「だから、本来であれば館内を順番に見て行って、最後に零戦とかも見るんですけどね。でも、最初の映像だけで一杯一杯になってしまったから、真剣に気持ちを込めて展示物なんてとても見れませんよ。へ~なるほどねって流しました。って何しに行ったんだよってねw」
あぁ、そういう話よく聞くわ。遺書を読んだ人の誰もが、泣いてしまって最後まで読めないって言うね。
「そうなんです。文章に魂がこもっていると言うか、今もその魂はあそこにありますね。間違いなく。日本人なら必ず行くべき場所ですよ。」
なるほどね。私もいずれ必ず行きますよ。
【特別攻撃隊】
多くの方にはこの話、何が何やら意味不明ですね。
熊ちゃんが行ったのは、鹿児島県南九州市知覧にある「知覧特攻平和会館」という施設です。この地は大東亜戦争末期、沖縄奪還および本土防衛の砦として、陸軍特攻隊が飛び立って行ったという場所です。
残念ながら私は未だ足を運んだことがありませんが、館内には零戦などの戦闘機が展示され、また大東亜戦争ゆかりの品々が収められています。遺書とはつまり、ここに展示されている特攻で亡くなった方々の直筆の遺書のことです。webサイトを見るだけで、私はいつも胸が押しつぶされるような気持ちになります。
参考:知覧特攻平和会館
特別攻撃隊、略して特攻隊とは、大東亜戦争末期に圧倒的不利に陥った帝国軍が生み出した、恐るべき戦法です。戦闘機に爆弾を搭載し、敵艦目がけて突っ込むのです。もちろんパイロットは命を落とします。その他にも、小型潜水艦のような人間魚雷「回天」、爆撃機から投下する人間爆弾「桜花」なども生み出されました。
中でも、言葉として最も有名なのは「神風(しんぷうまたはかみかぜと読む)特攻隊」ですが、こちらは海軍です。一方、知覧は陸軍特攻隊の基地でした。
参考:Wikipedia記事「特別攻撃隊」
こんな悪夢のような戦法を生み出したのは歴史上唯一、我が国だけです。自国兵士が確実に死ぬ戦法など、戦法ですらありません。しかし、当時政府は「生きて虜囚の辱めを受けず」という示達をしたし、今や左翼となった新聞各社ですが、当時は彼らも「一億玉砕」とか「一億火の玉」などのスローガンを作っては国民を扇動しました。そんな間違った時代だったんです。
参考:Wikipedia記事「戦陣訓」
【反戦が反日に代わった歴史】
こんな戦法で勝利できるはずも無く、やがて日本は敗戦を迎えます。そして戦後、反日教育と左翼メディアによって、こうした特攻の真実は捻じ曲げられてきました。ともすれば「天皇陛下万歳」を信奉した洗脳者の集まりだったとか、軍国主義に狂った上官が兵士を無理矢理縛り付けて行ったなどと言う人もいます。そうした一部側面は確かにありましたが、しかしこの説明が正しいとは思いません。それは知覧のサイトを見るだけでもわかるはずです。
以前に紹介というか、半ば宣伝した『永遠の0(ぜろ)』という書籍には、こんなエピソードが登場します。
主人公が、特攻で散った祖父の足跡を追う中で出会った、武田という元零戦パイロットがいます。物語の途中、予期せず、武田は左翼を代表するような新聞記者と対峙することになります。以下がそのやり取りです。
(以下引用)
記者「私は特攻隊員が一時的な洗脳を受けていたと思っています。それは彼らのせいではなく、あの時代のせいであり、軍部のせいです。しかし戦後、その洗脳は解けたと思っています。だからこそ、戦後日本は民主主義になり、あれだけの復興を遂げたと思っています」
(中略)
武田「わかったことを言うな!我々は洗脳などされておらんわ」
記者「しかし、特攻隊員の遺書を読めば、殉教精神は明らかだと思いますが」
(中略)
武田「当時の手紙類の多くは、上官の検閲があった。時には日記や遺書さえもだ。戦争や軍部に批判的な文章は許されなかった。また軍人にあるまじき弱々しいことを書くことも許されなかったのだ。特攻隊員たちは、そんな厳しい制約の中で、行間に思いを込めて書いたのだ。それは読む者が読めば読みとれるものだ。報国だとか忠孝だとかいう言葉に騙されるな。喜んで死ぬと書いてあるからと言って、本当に喜んで死んだと思っているのか。それでも新聞記者か。あんたには想像力、いや人間の心というものがあるのか」
記者「喜んで死を受け入れる気のない者が、わざわざそう書く必要は無いでしょう」
武田「遺族に書く手紙に『死になくない!辛い!悲しい!』とでも書くのか。それを読んだ両親がどれ程悲しむかわかるか。大事に育てた息子が、そんな苦しい思いをして死んでいったと知った時の悲しみはいかばかりか。死に臨んで、せめて両親には、澄み切った心で死んでいった息子の姿を見せたいという思いがわからんのか!」
(中略)
武田「死にたくないと言う本音が書かれていなくても、愛する家族にはその気持ちはわかる。なぜなら、多くの遺書には、愛する者に対する限りない思いが綴られているからだ。喜んで死んでいく者に、あれほど愛のこもった手紙を書けるものか」
(引用ここまで)
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【行間は愛を語る】
特攻兵は、最初は「志願」によって募られました。ただし当時の軍における話ですから、志願だったという人もいれば、志願とは名ばかりの強制だったという人もいます。しかし末期には、命令によっても特攻が行われています。
これにより、3,000人とも4,000人とも言われる数の青年が南の空へ散っていきました。しかも、その中には20歳にも満たない若者も多く、末期には現役の学生達までもが駆り出され、操縦技術もままならない状態で飛び立っていったのです。
彼らは自らの死を前にして、何を思ったのでしょうか。もちろん、悔しさも恐怖も抱いたでしょう。結婚もせず旅立つ運命を呪ったかも知れませんし、軍部や体制を恨んだことと思います。親や家族、愛する人との別れはさぞ辛かったことでしょう。現代に生きる私達には、到底想像もできないほどの無念だったはずです。
しかし彼らの多くが、知覧を笑顔で飛び立って行ったと聞きます。それは、後に残される者に対する、深い深い慈愛に満ちた心だったのではないでしょうか。そうして彼らは、日本と日本人を守るため、会ったこともない将来の同胞、つまり現代の私達のためを想い、散っていったのだと思います。
しばしば失言することで知られる西村眞悟議員ですが、彼のサイトに台湾から出撃し散った、特攻隊員達の集合写真が掲載されています。皆さんはこれを見て何を想いますか。私は感謝の想いが溢れてきます。
参考:西村眞悟ホームページ「陸軍特攻誠第百十九飛行隊出撃直前の写真」
参考:眞悟の時事通信(平成24年9月9日)「身は大空に散華しても笑顔は生きている」
【いつかは知覧へ】
ところで先々週、予定通り自衛隊富士総合火力演習を観覧してきました。ご縁あってここへ私を連れて行ってくれるのは、「モト子さん」という70年配の女性です。飲み屋で知り合っただけなのですが、友達です。先方も私のことを「お友達」と呼んでくれるので。私の交友関係は不思議と、年代を超越している所がありまして。
参考:陸上自衛隊「富士総合火力演習とは?」(動画も置いてあります)
モト子さんは富豪の生まれなので、戦中はまだ子供でしたが、庶民とは違った苦労をされています。食うに困ったりはしていない反面、身近な血縁者、知人達をどんどん戦争へ取られてしまい、その多くが戻ってきませんでした。そんな育ちだからか、これまで知覧へ5回も行ったそうです。しかしただの一度も、たった1枚も、遺書を読み終えることができないと。そう、私にいつも泣きながら話すのです。演習の日もそんな話で涙ぐんでいました。
こういう話をするといつも、戦争を美化するな!と言う人がいますが、特攻なんて美化できる筈ないでしょう。そんな余地は1mmたりともありません。私達はこの悲劇を、そして、彼らの犠牲の上に自分が立っているという事実を、絶対に忘れたくないのです。
戦争で命を落とした人、愛する人を失った人。その記憶を呼び起こす度、私は命の大切さと平和の尊さを実感します。
いつかモト子さんと一緒に、知覧へ行けると良いなぁと思い馳せつつ。
今回も最後まで読んで下さりありがとうございました。
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