→大学の真実(3)
私は、教師という仕事に対してちょっと偏見を持っている人間です。
現場の教師達を見てきた印象が、あまり良くないからです。
最近、何だか昔話ばかりですが、今回のエピソードは子供の頃まで遡ります。
【子供主体の学校】
小5の夏休み、友人に誘われて2泊3日のサマースクールへ行きました。小4~中3までの子供を100人くらい集めて、旅館を貸し切り集団生活するというものです。別の学校の子供同士が3日間、寝食を共にし、歌ったり踊ったり議論したりという活動を通じて、互いに自己成長していきます。
100人の子供は3クラスに分かれ、最初はレクレーション活動を通じて結束を高めます。当然ながらクラスを引っ張る中学生達には、高度なリーダーシップと年下への配慮や責任が求められます。一方の小学生達には、中学生の指示に従って行動することや、周囲への協調が求められます。
カリキュラムの中心は、合唱やゲーム、ダンスなど様々ですが、最大の肝はクラス対抗のディスカッションです。小学校4年生が、100人の子供を前に挙手して発言するというのは、普通ならどう考えても無理ですが、このスクールでは参加者の誰もが経験します。発言しなければクラスに貢献できないから、子供達なりに勇気を振り絞るんですね。そして、それを中学生が励まし、勇気づけて支援をするのです。
これらは、最初は全て大人の管理の下で行いますが、3日間かけて主体は徐々に子供達へと移ります。最終的には、全てのレクレーションの運営実施を子供が行うのです。子供が子供をもてなし、子供が子供の主体性で学校を作る。これがスクールのコンセプトでした。
【高度な自己啓発セミナー】
今風に言えば、対人関係を構築する術を育むとか、自己啓発合宿という表現が適当でしょう。ただし当時、この団体にそんな専門家はひとりも居ませんでした。団体の運営は全てボランティアです。子供は自身の宿泊交通費のみ負担し、大人達も手弁当です。
そしてこれを主宰、運営していた中心は、何と実際の小中学校の先生達です。彼らは、普段の学校では絶対にできないカリキュラムを組み、日常の教育から経験的に得た教授法を実践していたに過ぎません。
しかし、効果は絶大なものでした。スクールの性格上、参加する子供の半分は何らかの課題を抱えています。内向性、非行、不登校、学習障害、いじめる側も、いじめられる側もいました。彼らの多くが、たった3日間の活動で劇的に性格が変わったと言います。
それは、当の私自身も経験した事です。小学生の私はかなり内向的な性格で、休み時間はいつも自由帳に絵を書いていました。ドッジボールも鬼ごっこもやりませんでした。しかし、スクールに参加すると一転、不思議なことに、授業中にどんどん挙手して発言できるようになりました。
まさに別人のようです。何度も学級委員を務め、中学と高校の同窓会は全て幹事兼宴会部長。結婚式のスピーチなど、台本無しでも朝飯前。仕事した全ての会社でも常に宴会部長でした。恥ずかしさや照れがありませんので、時には、カラオケパブでの接待でWinkの「淋しい熱帯魚」を踊り、他のお客さんからお捻りが飛んでくる始末です。
こんなものは単なる笑い話ですが、しかし昭和50年代以降でこれができる人は、そうそう居ませんよね。しかしスクールの卒業生の多くが、私と同じような経験をしています。発達段階で自己啓発が成功すると、その効果は絶大で、大人になってもその影響は続くようです。
【社会の多様性という落とし穴】
しかし正直申せば、この性格には実は大変苦労しています。
人前で恥や照れがないということは、裏を返せば空気を読まないことと同義です。主体的で活発な人物を社会経済はいつも求めているように見えますが、現実では発言してはいけない会議だってありますよね。それが社会というものです。
でも、私のような性格の人間は、発言しちゃうんです。就活の会社説明会から、直球発言して社長をキレさせてましたから。大失態は数知れません。
恐らく、「話し上手」に「聞き上手」が居ないように、高い主体性を持つということは、協調性に欠ける側面もあるからです。学校ではそれほど必要ではなかった能力が、社会では必要だったりします。つまり現実の社会とは、様々な性格の持ち主が、協調し共存し合って成立しています。最近では、「リーダーシップよりもフォロワーシップが重要だ」という話も聞くようになりましたが、全くその通りです。
私はスクールを卒業した後、高校1年から20歳まで、今度は運営サイドとしてもスクールに参加し、子供の成長を間近で見てきました。また同時に、自分の先輩達がどう成長していくのかも見てきたのです。
しかし残念なことに、卒業生の多くもやはり私と同じような狭間で苦しみ、中には挫折していく人も少なくありませんでした。私はなぜだろうと考えた末に、あることに気付きました。
「明るく元気で活発な子供を育てる事」が、必ずしも教育の真理ではないと。
【金八先生にはなれない】
たしか19歳の年、私はこの疑問をスクールを運営する教師達に尋ねました。この教育は、私達が考える「子供の理想像」という型に、はめているだけではないのかと。
しかし、彼らから返ってきたのはお決まりの文句でした。
「教師は金八先生にはなれないんだよ。ひとりひとりの性格や適性に合わせた教育は、できないからね。」
あまり知られていませんが、教師達はある時期、金八先生が作り上げたイメージを要求する社会と保護者に、大変苦しめられた時代があります。結果として、教師の多くが日教組ではなく、サラリーマン化しました。当時の私は、それを非難したつもりでは無かったのですが、彼らにはそう聞こえたんでしょうね。
私は別に、教師が馬鹿だと言いたいのではありません。民間企業のサラリーマンと変わらないと言いたいのです。今回取り上げた教師達は、むしろ良識と意欲のある少数派でしょう。
しかしそんな彼らですら、私は大いに不満です。聖職どころか、優秀な人材かどうかも疑問だと思っています。子供達が活発に学び、健やかに成長するというのは、とてもイメージが良い話ですが、他方では社会へ出て活躍できるかどうかもまた、大切なテーマでしょう。それには高度な教育理論仮説と、効果測定に基づく実証が必要です。
つまり教育もまた、ひとつの学問なのです。しかし彼らはそれを学ぼうとしません。
私が教師を尊敬しない理由はまさにここです。これだけ情熱や意欲を持っている教師ですら、経験則だけで物を考えているのです。データは欲しくないんでしょうか。自分の教え子が活躍しているかどうか、知りたくないんでしょうかね。そこに目を向けなければ、真の教育なんて実現しない筈なのですが。
【教師はやがて居なくなる仕事】
教師批判はいつも、共産革命に熱心な日教組とか、ヒステリックな女性教師とかがテーマになりますが、こういう人達は教師以前の問題ですから、私からすれば論外です。
そして多数派は、残業代が出ないことも、未来を創る激務であることも、みんな最初から知ってたはずなのに、なぜか定時帰宅を要求するサラリーマン教師達です。彼らには教師として、公務員として必要な自己犠牲の精神がどこか欠落しています。
教師だって人間だ?
教師にも生活がある?
そんなセリフは、安定しない生活からでも多数の合格者を送り出す、予備校の先生の前で吐いてもらいたいです。中小企業をリストラされて行くところの無い中高年の前で、派遣村で是非とも吐いてもらいたいです。教育が、国家が疲弊している時に、公務員だって疲弊するのは当たり前です。
ああ、愚痴愚痴書き過ぎて少々疲れました。が最後に、大学と教師に偉ぶって毒吐くついでに、過去記事からこんな話も引用します。
「医者と教師のいない世界の実現。病気の100%予防、または専門的な知識や技能に頼らずとも怪我や病気を完治できるようになる。教えなくても自らで学び相互成長できる学校教育の実現。そんな世界があったら良いなぁというのはあくまで夢の世界ですよね。」
参考:過去記事「先生のジレンマ」
医療や教育といった福祉の仕事は、どれも尊い仕事です。成果が得られるまでに途方もない時間がかかるし、ベストも正解も無いのに責任もストレスも重大。しかも何よりも、教育のゴールは教師が居なくなることなのです。恐らく強靭な覚悟無しでは務まりません。
つまり、そもそも教師という仕事の哲学的本質は、最初から自己犠牲なのです。これは最初からわかってることです。だって、親が子供を育てる精神と全く同一なんですからね。それを仕事にしたんだったら、最後まで職責を全うして貰いたい。これが私の切なる願いであると同時に、それを実感できるまでは、私はやっぱり教師を尊敬できません。
世の中の先生方、毒吐いてすみませんが、社会から共感され尊敬されるように、もっと頑張ってください。
今回も最後まで読んで下さりありがとうございました。
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