今まで体は鍛えてきたつもりだけど

 

丈夫なつもりでいた自分も突然、奈落に突き落とされることがあります、(ホントに経験するとやっぱり怖いです)

 

 

だいぶ前だけど、映画か何かで、武術の達人が禅僧とまみえたときに、禅僧から「放下せよ!!」と一括されたシーンがあった

 

それが印象的だった、うろ覚えで意味は理解していたつもりだけど、ネットで調べて禅の言葉に、こんな言葉があった

 

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放下著 の解説

「ほうげじゃく」と読みます。間違っても「下着

したぎ

はなつ」と読まないでください。寒い冬の間は厚着をします。春になってだんだん暖かくなると、一枚脱ぎまた一枚脱いで薄着になっていく様子を下着を放つ

・・・・・と説明した人がいたそうです。笑えない話です。


放下

ほうげ」とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るの意です。「

じゃく」は命令の助辞

じょじで、放下の意を強めるために用います。「放下著」、すなわち煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよ!というわけです。

五家正宗賛

ごけしょうじゅうさん』の趙州

じょうしゅう和尚の章にある話で

あるとき、

げん

よう尊者

そんじゃという修行者が趙州和尚に問います。「一物

いちもつ不将来

ふしょうらいの時、如何

いかん――私は長い修行の甲斐あって、煩悩妄想を断じ、自己本来の仏性を体得して無一物の消息を得ました。これから先、どう修行したらいいのでしょうか」。すると趙州和尚が答えます。「放下著」と。
厳陽尊者は一応、如何いたしましょうかと謙遜して聞いていますが、自分の無一物の境界

きょうがいを見てくれといわんばかりの態度を看て取った趙州は、その無一物の境涯も捨ててしまえとばかりに、「放下著」と一喝

いっかつを浴びせたわけです。厳陽尊者は無一物の消息を得たかもしれませんが、まだその無一物を誇示

こじしようとする
自我が残っています。「放下著」と一喝されても、まだその辺がわかりません。「

すでに是れ一物

いちもつ不将来

ふしょうらい

什麼

なにをか放下せん――私はすでに荷物をも捨て切った無一物の境界です。何もありません。一体何を捨てろとおっしゃるのですか」。趙州和尚、最後に、「

ほう

ならば

たん

しゅ

れ――捨てることができなければ、その無一物を担いで去れ」。ここで初めて尊者は気がつきます。
 私たちは刻苦

こつく、血の涙で修行に修行を重ねて、ついに悟りを得ることができます。しかし、禅はそれだけでは満足しません。さらに修行を重ねて、その悟りをも、その菩提をも捨て去る修行に打ち込みます。そして、迷いも、悟りも捨て切った洒々落々

しゃしゃらくらくの消息を目指します。
 味噌の味噌臭きは、上味噌にあらず、悟りの悟りの臭きは上悟りにあらず、といわれる所以もそこにあります。
 無住

むじゅう法師の『沙石集

しゃせきしゅう』にこんな話があります。
 ある山中で四人の僧が、無言の

ぎょうを始めます。夜になって、灯明

とうみょうの火が消えます。一人の僧が大声で下男

げなんを呼んで、油を足せと命じます。それを聞いた第二の僧が、無言の行中に声を出すのは何事か、と叱ります。第三の僧が第二の僧に注意します。貴公も声を出したのではないか、と。最後に第四の僧がいいます、声を出さぬのはこの俺だけだ、と・・・・・・。
 声を出さぬのは俺だけだ!俺だけが本物だという意識、「一物不将来の時、如何」と誇示するところ、自我の塊です。この自我が、一番始末に負えないのです。放下著、この自我を捨てよ!といっています。自分の持っている名誉、財産、知識、立場、主義等を捨てよというのではなく、持っている自分自身を捨て切れと教えています。
 西郷隆盛は、「金もいらぬ、命もいらぬ、名誉もいらぬ人が、一番扱いにくい」といっています。「放下著」を体得した人間のことではないでしょうか。
 何かと自己顕示欲の旺盛な昨今、「放下著」の語に参ずるのも必要なことです。

 

いいこと書いてるな~・・・・・・・

でも、でもなんだか、判ったようでわからない

ますます判りにくくなったような気がするのは、頭の悪い僕だけでしょうか??

 

とにかく下着を脱ぎ去ることじゃなくて、凡人には難しいことかもしれないけど、いちど心を裸にしてみましょうか??

 

 

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