堺利彦
百年前の一九一一年四月、堺利彦は処刑された同志の遺族への慰問目的と、直接的な弾圧を免れた社会主義の同志たちの状況を把握するために各地を訪問する。
官憲の史料であるが『社会主義者沿革第三』に「堺利彦、陰謀事件関係者遺族慰問の旅行顛末、附大石誠之助遺物の処分」と題された項目が残されている。
その報告から適宜引用をする。「三月三十一日出発同年五月八日帰京せり……」と、京都府の岩崎革也が堺に対し旅費を工面した事実から書き始められ、「金十円内外を堺に貸与したりと云う旅行中の重もなる事項を挙くれば左の如し」と以下各地での動静が十項目に分けられ記されている。岩崎の三月下旬の東京滞在時に堺や大杉栄が訪ねていることも別項目で報告されている。
岩崎革也は一八七〇年生れ。『平民新聞』刊行など初期の社会主義運動を財政的に支援した。当時は京都の須知(しゅうち)町の町長と推測される。後に京都府議となる。
堺は四月一日から六日にかけて京都に滞在し岩崎、高畠素之、有馬源次らと会い雑誌刊行、「陰謀事件発覚前後の状況等」に付いて談話をしたという。報告は追尾していた各地の警察官、あるいは密偵が探り出した内容である。この「社会主義者沿革」が作成された経緯の概要を記す。
特高設置直前
社会主義者沿革は内務省警保局が極秘文書として作成、政府部内に配布した社会主義者への視察取締経過報告書である。第三は一九一一年六月時点でまとめられた報告書である。
天皇国家の政府は自由民権運動退潮後も政治思想を有する者を警戒した。一八八六年、警視庁の国事、高等警察部門の拡張を為し所管を八一年以来の内局から本部第三局に移した。警視庁による視察は当初は主として密偵が使用された。一八九三年以降は高等警察専任警官が置かれる。一九〇六年四月に高等課を新設し、さらに一九一一年八月二一日に特別高等課が分設された。
(参考『続・現代史資料1』松尾尊兊《まつお・たかよし》の解説)
処刑後の遺体引取りの新聞記事 画像
岡山
堺は四月七日、岡山に森近運平の妻繁(六月二一日主義者に編入、註、視察対象となる)と実弟良平に面会し「実父嘉三郎に使者を遣わし弔詞を述べ、長女マガラに対する土産として繁より金を受け取った」と報告。附記として良平は「貴下の御越しに付いては自分は赤旗を出して迎度考なり」と語ったという。良平は処刑された兄の無念を解消したかったのであろうか。堺を赤旗で出迎えるという意図は痛快である。堺は遠慮して断り実現しなかった。
福岡、熊本
九日、福岡に着き同志の森繁、横田宗次郎の訪問を受けたと報告されている。
一一日に熊本着、一三日に出発迄の動静は「松尾卯一太の妻倭久、実父又彦、実弟久男を訪ね弔辞を述べ、佐々木道元の実母エキ、実兄徳母に面会慰問の辞を述べ、徳母の案内で、新美卯一郎の妻金子トク、叔父巳之太郎を慰問、巳之太郎の案内で卯一郎の墓を拝し、松尾方にて古庄友祐(旧『熊本評論』社同人)と対談」。
高知
四月二二日から二七日にかけて高知県中村町の幸徳秋水の義兄、幸徳駒太郎宅に滞在し幸徳の家族たちと交流をする。秋水の墓前に詣でる。一家の者と共に下田港湾附近に漁遊を試み、幸徳一家の請に応じ約二〇枚の揮毫を為し、甥徳武次郎(準、註、視察対象に準じる)、従弟安岡友衛(準)、義従弟幸徳虎次(七月八日に準に編入)を始め「十数人の親族に面接し頗る歓待を受けたり」と報告される。
二六日には「土佐郡潮江村に移り翌日に梅の辻なる岡林寅松の実妹晃恵の嫁せる西野久寿弥太方を訪ねる。慰めの辞を述べ寅松家族に対する談話を為す」と報告。
大阪
二八日に兵庫県の小松丑冶の留守宅を訪問。後に大阪に移動。
二九日、武田九平の実弟伝次郎を訪ね同人と共に九平の妻森口ユキ及び同居者にて岡本穎一郎の妻藪田ハル(不在)を慰問、伝次郎、岩出金次郎と共に三浦安太郎の家族を訪問し、九平の留守宅に来合わせた百瀬晋と暫時対談の後に出発。続けて京都に移動し三〇日に岩崎方に一泊し五月一日に出発。
和歌山
五月三日に和歌山県に着く。同日に「大石誠之助の妻恵為を訪ね弔辞を述べる同家に滞在誠之助の墓を拝し、高木顕明の妻権田タシ、誠之助の実兄である玉置西久と訪問を交換し」、「恵為の案内で峯尾節堂の母ウタ方、玉置方を訪問し玉置方にて大石真子にも面談する」(玉置方の訪問目的は同家に預けてある誠之助の書籍を見るためという)。そして西村伊作に出会い成石平四郎、勘三郎の家族には四日に書面で慰問をする。五日、三重県に入り、崎久保誓一の
家族を慰問。
六日に木本港より乗船し翌七日鳥羽港に着き帰京の途に就く。
警察官あるいは「密偵」はどの程度まで主義者たちやその周辺に接近し、情報を得ていたのだろうか。荒畑寒村は同志たちとの茶話会や研究会に警官が同席していたことを回想している。
堺は帰京の夜、同志たちに各地の状況を報告する。
同志への報告
五月七日、堺利彦は帰京の夜に同志たちを招集し報告会を開いた。参集した同志は大杉栄、堀ヤス、岡野辰之助、田島梅子、斎藤兼次郎、吉川守国、藤田四郎の七名である。
『社会主義者沿革第三』に掲載された堺の談話の要領を引用する「大逆事件処刑者の遺家族は坂本清馬、飛松与次郎を除くの外は悉く訪問せしが累の及ばんことを恐れ面会を好まざる者なきにあらざりしも其の多数は歓迎しくれたるを以て余は大に満足せり」。
坂本と飛松の家族を除いて全て訪問をした。社会主義者である堺と会うことにより、官憲からの更なる弾圧が引起されることを恐れ、訪問を嫌がる家族も少数であるがいた。しかし多くの家族は私の訪問を歓迎してくれたので満足をしているという趣旨である。
幸徳の遺族
土佐、中村の幸徳家を訪ね秋水使用の部屋に案内されている。堺は秋水のことや裁判の過程で病死した秋水の母親の遺影をみて様々に感じている。
「幸徳秋水の遺族同駒太郎は余の往訪を喜び特に秋水常居の一室に招かれたり室内には秋水の老母の写真を飾りありて感慨交々至れり秋水の祖母は秋水に再会せしの感ありとて大に喜べり」。
続いて幸徳秋水の遺産の分配に関しての報告である。「秋水の家屋其の他所有品を売却せし代金二千余円ありしも大部分は秋水に於て費消し剰す所約五百円に過ぎざるも」とあり、師岡千代(秋水の離別した妻)には百五十円を譲与し遺稿の『基督抹殺論』の収益五十円を加えて二百円を与えると堺は調整をした。そして「何れ千代に相談する考えなり」と述べ、残りの三百五十円は在米の社会主義者で秋水の甥の幸徳幸衛に譲与がなされるはずであると報告。
各地の家族
刑死者の家族の様子も報告されている。「松尾の妻は管野スガの後継者になる可能性がある」。
『熊本評論』を刊行していた松尾卯一太の妻に関する評価である。管野須賀子が引き合いに出されている。妻の直接のコメントとして伝えられていないので推測をするしかない。妻が語ったのは政府批判であり、天皇国家の問題点、社会矛盾に関してのことなのであろうか。その後の消息は資料で見ることはない。
「武田、岡本の妻は芸者屋を為しているが警察の迫害に苦しむ」、
大阪の武田、岡本の妻は芸者の置き屋をやっていたようである。警察からいやがらせを受け苦痛となっているようである。
「森近良平は意思堅固、立派な同志である、運平の妻は東京の同志のことを尋ねていた」。運平の実弟の評価が高い。
「京都の同志は東京の同志と常に連絡を保ちたいとの懇望、同志の氏名を告げる」。
京都の社会主義の同志たちは東京の同志たちと連携を続けるという決意があり、堺は連絡が可能な同志たちの名を伝えた。
和歌山の遺族たち
和歌山での大石の妻に関して報告。「病院其の他器具等を売却し当時は極めて閑散の身と為り居るも流石は大石の薫陶をうけたるものなれば」と語り始め、誠之助の「衣類書籍は東京の同志に配布を」と依頼されたことを報告。
「高木の妻は同地の習慣で後継住職の梵妻たるべきはずであるが妻は過日、秋田監獄の高木を訪問し不都合ということで、放逐された」。
同地域のみの習慣なのか、後継住職の妻になるはずが監獄に行き面会をしたという当然のことが問題視され、寺から追われたということである。
堺の今回の旅行全体に関しての費用は「三百円かかったが岩崎より恵まれる。同氏に対して大いに感謝する」。前号に記した岩崎革也の資金カンパが堺の今回の訪問を支えた。
「各地の状況は決して悲観すべきにあらず尚かつ優に一と旗挙げ得べきを認めたり」。
大逆罪弾圧の判決と処刑から数カ月を経たなかでの同志懇談会である。堺は数少なくなった同志たちを奮いたたせるコメントを発した。
最後に「エマ・ゴールドマンより幸徳其の他、刑死者に対する弔慰金として三百弔慰金
『社会主義者沿革第三』に項目タイトル『米国紐育の「エムマゴールドマン」婦人より陰謀事件関係者に対し義捐金を送付し来る』と付され
弔慰金の分配先の一部が記載されている。
まず四月一一日付でエマ・ゴールドマンより横浜貯蓄銀行払いにて「米貨換算額」百五十円が加藤時次郎宛に送金されている。先に三百円の額と堺より報告されているが銀行が海外からの個人送金の手数料として大幅に銀行が引いたのだろう。(今日でも銀行を利用して海外から送金を受けると手数料が大きく引かれる)。
堺が分配せし形跡あり、と書き始められ「其の内判明せしもの左の如し」として森近運平実弟良平へ金十円、成石平四郎寡婦「むめ」へ五十円、坂本清馬実父幸三郎へ十円、成石勘三郎家族へ金五円、新田融妻ミヨへ金十円と列挙されている。
同沿革の記載によると、加藤はエマと面識がないという。加藤が滞米中に演説をしたことがあり、エマはその件から加藤の連絡先をたどったと思われる。
エマ・ゴールドマン
エマは一八六九年リトアニア生まれ、ロシアからアメリカに移住した。アナキズム運動、女性解放運動、反戦運動に参加し七〇年の生涯を通して闘い続け、恋愛にも情熱をそそいだ。一九世紀末、二〇世紀始めの社会主義に関心がある人たちにとってエマ・ゴールドマンは大きな印象を残している。エマの発表した論文や彼女の活動は伊藤野枝などによって邦訳され一九二〇、三〇年代のアナキズム機関紙誌に多く掲載された。エマの関心は労働運動、産児制限、男女同権、徴兵制反対、監獄と多岐にわたり、ロシア革命時には当地に渡ったが失望し、スペイン内戦においてはアナキストを支持した。
マザー・アース
沿革には『マザー・アース』誌の一九一一年七月発行号に掲載された堺利彦と加藤時次郎のエマ宛書簡と同志で恋人でもあったアレキサンドル・バークマンの「日本よりの声」と題された短い前書きが官憲により訳載されている。
「沿革」の訳載文は漢文混じりである。堺が英訳した書簡をエマに送ったのかどうか定かではない。官憲から依頼された訳者が形式が書簡ということであえてこのような訳文にしたのか。もしくは堺が文中で指摘しているように官憲が信書をかってに開封し事前に写しとっていたのであろうか。「沿革」は今でこそ文献として読めるが、元々は政府の一部中枢に報告された官憲の文書である。当時、堺たち社会主義者が手にすることはできなかった文書である。
堺書簡
「日本政府の野蛮なる実に拙者共の信書の封緘をば窃に相破り候も併しながら未だ流石に金円は窃取不候、故に此の際何卒御送金願上候、金円は目下非常に入用に有之…」と書き始めている。日本政府、すなわち政府の意を受けた官憲が堺利彦が発受信する書簡を開封するという事実をあげ、しかし現金に関しては今のところ盗られていないので送金をお願いしたい、今お金は必要であるという趣旨である。
続けて「二十名余の我同志者は今尚鉄窓の下にあり、其の多部分は無期懲役囚に御座候、而して過般殺戮せられたる同志者共の遺族等は四囲の迫害と日夜の貧窮とに悪戦苦闘致居候、想ふに全世界に亘る我が同志者は必ずや吾々共に深く御同情下さる事に可有之候」。
大逆事件以外で弾圧された同志たちも含めてであろうか二十名と記している。先に堺が遺族、家族を訪問し東京の同志たちに報告と同じように周囲からの迫害を受けていること、困窮状態にあること世界の同志たちは同情してくれるだろうと訴えている。
日本の下層社会は覚醒しつつあり社会主義運動は今後十年で大きくなるであろう、医師の加藤時次郎は友人にして同志である、と記す。
家族への配分
今回、義捐金を送付して頂ければ最も逼迫している遺家族に配与し、一部を以て在監中の同志者に書籍の差入を致す費用にさし向けたい、しかし在監者は「僅かに其の最近親戚より送付の書面を受領し得るに止り、自余の面々よりは一切文通を受け難し、其の受け得るは書籍の差入れだけに御座候」と親戚以外は書籍の差入れしかできないことを伝えている。
「今や日本政府は社会主義又は無政府主義の新聞雑誌を悉皆没収致候も、夫れに拘らず小生は時々米国に在る友人より貴『マザー・アース』誌を寄贈せられて領掌居候」と関連文献は発禁処分にされているが、あなたの雑誌は受け取っていると六月三日付けの書簡を結んでいる。
妻たちの困窮
前号は『マザー・アース』誌宛て堺利彦の書信を引用したが続けて加藤時次郎の執筆の文面を引用する。
(参考文献『社会主義沿革一』みすず書房)。
加藤は堺が各地の家族を訪問して知り得た生活の概況を手紙に認めている。すでに堺の報告を引用したが新しい内容もあるので紹介する。
「同志者新美の寡婦は琵琶弾手となりて僅かに糊口致居り、其の母と共に極めて淋しく暮らし居り候」
「同志者松尾の寡婦は一男一女を有するにも拘らず、故人の弟と逆縁致すべき強迫致され候」。義理の弟との再婚を峻拒したので勘当され路頭に迷うのではないかと判断している。
「同志者森近の未亡人は裁縫学校の教師となりて生計を営まんとし目下其の手運び中に御座候、彼女に七歳の女児一人ありしも右は亡夫生家に引取りて養育する所と相成り、彼女は真に手持無沙汰に有之候」。
二人の女性は家父長制の社会で子どもの育児もままならず、さらに独自の収入を得ることの困難さ、大逆事件の被処刑者の妻であることから独りあるいは子育てしながら生活して行くことに幾重もの圧力を受けている。
「大石未亡人は亡夫の遺児二名と共に極めて安穏に暮らし居候、同志者大石は医師に有之、若干の財産を遺して去りたるものに候」、
「同志者成石の寡婦は其の養父母と共に覚束なき小店を有して生活致居候」。
老父母の困窮
「自余七名の殺戮せられたる我同志者は何れも独身者なりしを以て寡婦をも孤児をも遺さず候」と報告されている。他の刑死者七名は独身であったが或る者は老父母が居た。その父母は貧苦に悩んで扶養を受けざるを得ないであろうと報告している。
無期囚の家族
在監者の同志者家族に就いては「小松の養女は養鶏を以て湖口致居候、武田の養女は芸妓を致し居る其の姉妹の留守番等を勤めて詰り姉妹の厄介になり生活、岡本の養女は工女と成りて勤め候」と不安定な仕事に就いていることが報告。
「取分けて非惨なるは岡林の妻女に候、彼女の両親は彼女に迫りて遮二無二、在監中なる其の良人と離縁せしめんと致し候も、彼女百方之を拒み候、然るに結局彼女の意志は蹂躙せられて離縁に相成り彼女と良人との間に挙げたる一男児は強いて彼女の腕より捥ぎ取られ良人の老父之を鞠養致候」とやはり封建的な家制度の犠牲となっている。
家族への義捐金
加藤は家族に義捐金を分配すると報告して文面は終っている。日付は一九一一年六月八日。宛名は在紐育、友人にして同志者なるエー、バークマン殿。
状勢一班第四
大審院の判決から半年近く経て内部報告文書の名称の変更があり「特別要視察人状勢一班」となる。「第四」の期間は「大凡明治四十四年七月より大正三年六月迄の間に於ける特別要視察人状勢の一班を叙述したるもの」と三年に亘る。
分析された主義者
「第一款総説」には「幸徳伝次郎等に係る陰謀事件の判決は要視察人をして頗る戦慄恐怖の念を懐かしめ中には之が動機となりて全然主義を抛棄したりと認めらるるものなきにあらず」、
「該事件以来一般に警戒心を助長せる結果表面は至極平静なるの観なきにあらざるも一歩進めて深く彼等の真相を探るときは思想堅固なるものに在りては毫も其の変化を来したる跡なきのみならず益々之が研究に力め同志の糾合を図りて他日に期する処あるもの」、
「不敬罪犯者等の恩赦に浴して出獄せるものが尚改悛の域に達せず彼等の群に投じて行動を共にする等甚憂慮に堪えざるものあり」と大逆事件以降の社会主義者たちの動向を分類している。
対象人員数
第二款には視察対象の人数が記されている。「人員は陰謀事件関係者の他の家宅捜索等に拠り新たに多数の者を発見したる為明治四十四年六月末日現在は特別要視察人九百九十四名準特別要視察人九百八十一名」「大正三年六月末日、前者二百五十九名、後者四百二十七名」。
関連の家宅捜索で一時的に増えたが三年後には要視察人が四分の一になり減少している。元々大逆事件における弾圧が大方はフレームアップの上に彼等の家族や周縁の知人にまで家宅捜索をした結果が要視察人の増加となっている。減少するのは当然である。
幸徳の「陳弁書」
「堺利彦は明治四十四年七月一九日附けを以て茨城在住小木曽助次郎へ宛『故幸徳伝次郎が生存中獄中より弁護士に送りたる極めて有益なる書面なれば一読の上返却せられたし』との意味を附記し左の一遍を郵送せり。『幸徳秋水の獄中より弁護士に贈る書』。目次、諸言、無政府主義と暗殺、革命の性質、所謂革命運動、……聴取書及調書の杜撰」と項目がたてられ、続けて長文の本文が全文収録されている。
堺が幸徳の弁護人から幸徳の書を借り受けて筆写したものを送付したと推測できる。幸徳は大審院の休廷日の一二月一七、八日に弁護士宛ての文書を執筆した。無題であるが後に「陳弁書」と言われる。
天皇国家の官憲は郵便局の協力のもとに社会主義者の書簡を開封するという暴挙を継続していたのである。幸徳が刑死して半年、堺利彦は幸徳の思想を同志たちに伝える役割を担っていた。