2月11日に……内山愚童の宣言
『入獄記念・無政府共産』
「人間の一番大事な、なくてはならぬ食物を作る小作人諸君。…今の政府を亡ぼして、天子のなき自由国に、するということがナゼ、むほんにんの、することでなく、正義をおもんずる勇士の、することであるかというに、今の政フや親玉たる天子というのは諸君が、小学校の教師などより、ダマサレテ、おるような、神の子でも何でもないのである、今の天子の先祖は、九州のスミから出て、人殺しや、ごう盗をして、同じ泥坊なかまの、ナガスネヒコなどを亡ぼした、いわば熊ざか長範や、大え山の酒呑童子の、成功したのである、神様でも何でもないことは、スコシ考えてみれば、スグしれる。……… 小作人諸君。諸君はひさしき迷信のために、国にグンタイがなければ、民百姓は生きておられんものと信じておったであろう。ナルホド、昔も今も、いざ戦争となれば、ぐんたいのない国はある国に亡ぼされてしまうにきまっておる、けれどもこれは天子だの政府だのという大泥坊があるからなのだ。
戦争は政府登政府とのケンカではないか、ツマリ泥坊と泥坊がナカマげんかするために、民百姓が、なんぎをするのであるから、この政府という、泥坊をなくしてしまえば、戦争というものはなくなる。戦争がなくなれば、かわい子供を兵士にださなくてもよろしいということは、スグにしれるであろう。
ソコデ小作米を地主へ出さないようにし、税金と子供を兵士にやらぬようにするには、政府という大泥坊をなくしてしまうが、一番はやみちであるということになる。
しからば、いかにしてこの正義を実行するやというに、方法はいろいろあるが、マズ小作人諸君としては、十人でも、二十人でも連合して、地主に小作米をださぬこと、政府に税金と兵士をださぬことを実行したまえ。諸君がこれを実行すれば、正義は友を、ますものであるから、一村より一ぐんに及ぼし、一ぐんより一県にと、ついに日本全国より全世界に及ぼして、ココニ安楽自由なる無政府共産の理想国ができるのである。
何ごとも犠牲なくして、できるものではない。吾と思わん者はこの正義のために、いのちがけの、運動をせよ。(オワリ)」
天子なき自由国
天皇国家を廃止して自由な「くに」にしようと、小作農に訴えている。学校で教え込まれ神格化された天皇が侵略者の子孫であることを喝破し、非軍備が平和の本質であることを明らかにし、軍隊を無くすために税金の不払いと兵役の拒否を訴えている。
この正義のために小作人が連合を積み重ねて行けば支配が無い社会が実現すると結び、そのために運動に参加をすることを呼びかける。
内山愚童
内山愚童は赤旗事件の実刑判決に抗議し社会変革を訴えるために秘密出版を独力で為した。箱根、林泉寺の住職であった愚童は『入獄記念・無政府共産』を執筆、自身で活字を拾い、版を組み印刷製本をした。文庫本サイズの小冊子である。
愚童は一八七四年生まれ、一九〇三年五月頃に林泉寺の住職になる。平民社とつながりのあった医師、加藤時次郎の別荘が小田原にあった縁で愚童も平民社に関わる。
一九〇四年一月一七日付け『週刊平民新聞』十号に初寄稿、「社会主義の信者となる」が掲載される。以降、社会主義者と愚童の交流が始まる。
〇八年三月二十日、愚童は巣鴨監獄に「金曜屋上演説会」の実刑者を出迎えに行く。愚童自身も社会変革の意志と国家からの弾圧を強く意識していたのであろうか。この時代、同志を迎えに行けば官憲の監視はより強まる。
当然ながらその三ヶ月後の赤旗事件の公判にも注目をしていた。公判が進行をしている頃、社会主義者の守田有秋から印刷機を斡旋され入手している。
そして判決から程なくして『入獄記念・無政府共産』の原稿を書きあげている。九月三〇日には柏木の平民社を訪問し無罪釈放となった管野須賀子とも会っている。
内山愚童の研究家柏木隆法は愚童が大逆のイデオローグであったと述べている。
同書を部分ではあるが紹介をする。復刻がされ参照をすることができるが、入手をした活字が揃っていないので文を活字に合わせているところもある。また民衆に理解されやすく漢字の使用をおさえて書いている。
『無政府共産』の配布
一九〇八年一一月三日、宮下太吉は内山愚童から『無政府共産』五〇部を受け取る。
宮下太吉は内山愚堂と面識はなかった。内山は平民社の購読者リストから秘密出版した『無政府共産』のパンフレットを複数部送付をした。
宮下は、その内容に大いに共感し、たまたま一一月一〇日に天皇ムツヒトが関西行きのため、近くの東海道線大府駅を通過するという新聞記事を読み、集まる住民に配布することを決意した。
神格化され絶対権力者としての天皇への批判・否定のパンフレットは所持しているだけでも「不敬罪」の取締対象である。現実に何人かが内山から送られたものを所持しているだけで弾圧され、不敬罪で起訴され五年の実刑攻撃をうけている。 そして一〇日、東海道線大府駅での天皇通過を見に来た民衆に『無政府共産』を配り公然と反天皇宣伝を開始したのである。
機械工宮下太吉
熟練の機械工であった宮下は一八七六年生まれ。小学校を卒業し、すぐに鍛冶屋に見習いにはいった。彼は社会主義文献に触れる前から労働者が置かれている環境に疑問を持ち『日刊平民新聞』を入手、さらに労働者の組織化に目覚め、自分の職場に組合を結成し「亀崎鉄工所友愛義団」と名付けた。
弁護人が残した大審院特別法廷覚書によると、宮下は法廷で次の様に述べている。
「煙山氏の『無政府主義』を読みし時、革命党の所為を見て日本にもこんな事をしなければ、ならぬかと思いたり」予審調書では
「私は社会主義を読み、社会主義を実行するに当たり、皇室を如何にすべきかとの疑問を持っておりました処、一九〇七年一二月一三日、森近に会ったから、日本歴史に関し皇室の事を質問したのです。 …… 」
森近運平から、後に早大教授となる久米邦武の『日本古代史』を見せられ、「皇室崇尊の思想は迷信である」と学んだのである。
〇八年一月には片山潜の講演会を企画し地元で主催したが片山の議会主義には納得しなかった。二月には再び森近を訪れ、秘密出版されたアナキスト、ローレルの『総同盟罷工論』を貰っている。
大逆事件に巻き込まれる森近は『日本平民新聞』一三号(〇八年二月五日号)に宮下の印象記を載せている。『脳と手』と題し「宮下君ら数十名の同志は、面倒臭い本こそ読まぬ。金鎚と鉞とネジ廻しとを以て、器械を組み立てる技術を持った人である。その頭脳の明晰なる事、到底帝国大学の先生方の及び能わざる所であると感じた」
