★『黒色青年』第一号五頁 一九二六年四月五日
「消息」
朴、金子両君の判決
三月二十五日両君の判決は共に、死刑を言い渡された。
朴君は「裁判は愚劣な劇だ」と叫び、金子君は、「萬歳」を叫んだ。
朴烈君金子ふみ子君は震災当時九月三日早朝淀橋警察署に保護の名目によって拘留されて以来既に四年、未だに市ヶ谷の獄以外一歩をも地上を踏むことなく、ただ〇〇と〇〇の命のままに、今目前に迫り来っているギロチンを想い静かに、然し底知れぬ沈着さを以て、その日を待っている。生に対する些かの執着をも持たない。いま直ちに君の前に死の手が延びて行くなら、君は、黙ってその手を嘲笑うであろう。そして従容何一言〇〇の命に従うことなく、自らの咽喉をしめるであろう。
君は常に言っている。
『僕は確かに、僕の仕事を急いだ。その計画の期の。熟するに先だって、自らその期を掠えるために焦りすぎた。それから、僕は所謂同志に対する選択を誤った。誤ったと知ると同時に断然手を切らねばならぬことを知りながらも従前からの関係と、それ程迄に同志の真意を疑わなかった。………』
今は僕に事件の内容に立ち入って公開するの自由を持たないが、こう言う朴烈君の言葉の中には、如何に自らを血を以て活ききろうとするため腐心したか。そして常に充実したハチ切れそうな熱と努力とを以て活きるだけを活きて来たか。充分に諒察することが出来る。更に君は言う。
『この身体は〇〇のギロチンの露と消え失せるとも、俺の蒔いた種は、あとに残り、かたい地殻を破って芽を出し花を持ち、そして終わりには実を結ばないではやまないであろう。』と。
今、目前に迫る死を凝視しつつも堅い信念と来たるべき必然とを想って、君は静かに微笑している。
金子ふみ子君は朴君と同棲未だに二カ年に満たないが一女性として現社会に叛逆して起ってから以来数年、転変極みない生を亨て、苦慘に続く暴圧の下に呻きつつも弱められた女性として起ち、更に一個の人間として、我等の戦線に起って来た。
今その苦慘二十五年の生涯は如何に〇〇の××××××〇〇〇〇か、知る由もない。
然し去日中大審院法廷に立って、顔色変えることのなかった彼女は、今八百枚にあまる自叙伝を執筆し終わっている諸君の前に何時かは現れることがあるだろう。
★『自由連合新聞』三七号一九二九年七月一日
真友連盟事件の同志も出獄
去る大正十五年八月栃木刑務所に於て縊死した金子文子君死体引取当時の警察当局出し抜き事件で検束されたまま、朝鮮大邱真友連盟の治安維持法違反事件の被告として大邱刑務所に収容されていた黒色青年連盟椋本運雄、栗原一男の両君は、当時強烈に行なわれた「無罪証明」「即時釈放要求」の運動の甲斐も無く、爾来三星霜の長期欠 されていたが、此の程刑期満ち去る六月十九日無事に出獄、直に帰京し、現在市外代々木富ヶ谷のA思想協に於て静養中である。両君とも極めて元気だ。猶お同事件関係の同志五名は今尚お大邱刑務所に被監禁中である。
★「叛逆者伝一九」金墨君(正根)朝鮮 宋暎運 『自由連合新聞』掲載
…それから直ぐ一九二六年七月に日本に於て、アジアの弱力民族の大会が開かれんとした時に(ここの弱力民族会議は反動分子共のもので真の弱力民族を代表するのではない)彼は憤然その大会を粉砕すべく単身同様で長崎へ出発の準備を急いだが、遺憾ながら出発の前夜金子文子さんの死を伝える電報が届いた。同志等は驚いた。彼女がまさか、と自殺を信ずるものは一人もいなかった。彼は同志四、五人と布施弁護士と共に栃木刑務所へ赴いた。そして遺骨が布施氏宅へ着くや間もなく、遺骨紛失事件を起こし(遺骨は紛失したのではなく追悼会を催さんと同志の手によって持ち出されて、本を包んで遺骨のように見せかけ終に番犬共をがっかりさせた事件)彼は検束されたが、そのまま何の理由もなくして栗原、椋本の両君と共に朝鮮へ送られて了った。
既に諸君が御承知の、これが、彼の最後を語る大邱の真友連盟事件である。お互いが消息通信や激励の手紙などなしたとの微弱な口実の下に、七人の同志は無闇に鉄窓の下で殺されて行かねばならなかった。斯様な横暴は植民地に於て更によく見られる現象ではあるまいか、吾々はそれを資本主義並びに強健社会の隠すことの出来ない裸体だと認める。事件は予審免訴にされたにも拘らず、検事は不満控訴をなし遂に七名の同志はそれぞれ懲役の判決があり、彼は五カ年の懲役を言渡された。大邱監獄に於て服役中彼は肺患に罹り一九二八年四月最早見込みなしと認めてか出獄を許され、父親に抱かれて京城の自宅へ帰ったのである。この時それを目撃した同志の話に依れば、彼は見苦しい程やせていてまるで骸骨のようで見るに忍びぬ哀れな姿だったと。家の周りはスパイの奴が二、三人目を張って厳重な警戒をしていて、同志友人等の訪問も自由にならなかったがそれから幾日ならずして彼は死を予知してかその同志を呼び「同志諸君に済まないよろしく」「達者で暮らせよ」「僕のオヤジを安堵してくれ」と三つの言葉を残して、多量の喀血をなし遂に彼は三九の青春を空しく終わった。と語っている。「ヂリヂリとやられるよりは、あっさり一思いに殺された方が…」とは彼が在りし日に残して行った言葉である。彼はその何れに依ってなされたろうか。犬一匹をも大事にする奴等が、何故人間を斯様に惨酷にせねばならぬか。この事実を前に何がくよくよ考えられるだろう。
彼は死んだ。然し彼の熱と真面目さは何ものかによって尚ほ生き彼の蒔いて行った種は永遠に朽ちることなく生長することを確信するものである。
★「叛逆者伝」洪鎭祐(朝鮮)栗原一男 『自由連合新聞』掲載
「……然し洪君は言語の不通が甚だしく運動の進展性を阻止することを痛感して、最初に鮮文アナルキ機関紙『民衆運動』を創刊した。けれどもそれは幾ばくもなくして廃刊され、直ちに彼は『自壇』の創刊に着手した。当時彼と親友であった朴烈君は『黒濤』を創刊し、つづいて不逞鮮人と解題し、現社会と改題し、最期の震災によって捕らえられるその日まで、雑誌『現社会』を世に送り、尚且つ黒友会の運動、更に次から次へと継起する労働争議、鮮人迫害事件等々々『彼の生存が如何にあづかって力あったかは、今日その枚挙に遑ないであろう。………
彼の東京に於ける最初の受難は朴烈君事件であった、市ヶ谷に一年病弱な彼はそれでも何時も元気に夕方になると高窓から首を出し合って漫談に時を過ごしていたし何時も快活で明るく、大半を読書と英文典に費やしていた、けれ共、そうしている間に既に病魔は彼を犯しつつ来たるべき第二次の入獄に彼をあほるべき運命にまで突進んでいた。十三年の真夏市ヶ谷を出獄するや彼は帰鮮した。そして在郷一年情熱家で熱烈な××精神に燃え立っている彼は、朝鮮のあの悲惨な農民の生活を目撃した時忍び難い公憤と、理想社会への憧れとは、病弱の彼の身を憩わせては置かなかった。在鮮同志を呼合した『黒旗連盟』は飢餓と絶望と倦怠のドン底にある京城の一角に猛然と運動を開始した。否!開始せんとした。けれど既に不穏?の策動を探知した当局は洪君、そうだ!あの情熱的で沈着な恰度、マハイロフの様な洪君が、貧のどん底にあって、日用の鍋二つと一個の釜を入質して郷里から京城に向け出発するや否や、彼を引捕らえて了った。在獄数ヶ月、黒旗連盟は同志十名により不穏な計画と運動に着手したとの理由で治安維持法により懲役一年を宣告した。服役中病勢昂じたために仮出獄すらした程であったが、残余刑数ヶ月を大田に送ることによって、彼は全く病魔の虜となって了った。
彼は事に臨んで常に沈着であった。そして聡明のきこえ高かった彼は、明確に認識するまではその相手から根掘り葉掘りして聴取した。その代わり自身の意見を陳開するにあたって、相手の理解するまで悟了する迄は、誠に彼は飽くことを知らない不撓不屈の性格抱持者だった。その彼のアルチュアを蒙った者は単に鮮人の同志諸君に限ってはいない。当時、黒友会、現社会、自壇等に関係を持った日人の中に、彼独特の論調と快活さをもって「権力及び力の問題」「相互扶助と生存競争の双連」等について彼一流の論議を聞かされなかった者があるであろうか。又時に臨んで剛毅な彼は、朝鮮キリスト青年会館に開かれた朝鮮問題演説会に不当な解散を詰問すべく司会者として壇上を領し頑として臨検の犬共を蹴飛ばした事実等は一面の彼の風貌を忍ばしめるに充分である。
洪君 悩みと苦闘と、そして貧にまとわれる苦痛の生活、そのために生み出されたかの如き生活に終始し、尚お且つ、あの革命的熱情と理知的才能に恵まれていた彼その彼は遂に二度目の入獄によって生命を奪われなければならなかった。
一九二八年五月十八日午後五時廿五分、京城大学病院の一室に、親友李箕泳君と彼の妹達少数の友人に護られつつ××戦線の曙のおもむろに白み行く時、然り三十二歳の血気盛りを、空しくも亦悲壮に消えて行った彼、彼のあの柔和でだが力と意気に充ち溢れたその声を、我々は再び耳にすることは出来ない。
彼は逝いた。彼は再び還らない。
けれど私は愚かにも彼の生前を追憶して彼の熱情と意気とを、もう一度偲び尚おこう、彼の還らざる魂を我等の現実にまで呼び覚ましたかったのである。(一〇.二二)」
★<布施辰治弁護士の報告『労働運動』、同志の報告記事『黒色青年』紙より>
此の事件は治安維持法違反として、告発されているのであるが、側聞するところに依れば、本件はモヒ中毒の一浮浪青年の誣告に依って成り立った架空事件としか思われない。
布施辰治は「被告人栗原一男、金正根、及び椋本運雄の真友連盟員に対し無政府主義に基づく新社会の実現の為暴力による直接行動を教唆煽動し、之をして暗殺破壊の協議をなさしめたり」と云う起訴をしたのが事件の内容である。
布施辰治「被告人椋本運雄が大正一五年二月中前者と同様の目的を有する黒化社なる結社及び前示黒色青年連盟を組織したることの意見と、被告人栗原一男が大正一五年一月三一日夜に於ける東京市京橋区銀座通に於ける黒色青年連盟員の暴行障害等を為したる事件に付真友連盟に語りたること、及び、被告人金正根が、<真友連盟の設立は大正一四年九月二九日>真友連盟員に対し無政府主義実現の為には直接行動によらざる可化らずと告げ、又其趣旨の書面を申宰模に送り、被告人椋本運雄も同趣旨の書面を方漢相に送りたりとの事実と、前述被告人栗原一男、金正根の談話及び金正根が申宰模に送りたる書面……、被告人椋本運雄の方漢相に送付したる書面」とを綴り合わせて「被告人栗原一男、金正根、及び椋本運雄の真友連盟員に対し無政府主義に基づく新社会の実現の為暴力による直接行動を教唆煽動し、之をして暗殺破壊の協議をなさしめたり」と云う起訴をしたのが事件の内容である。
「直接的原因なる朝鮮真友連盟の爆破事件なるものの真相も、一モルヒネ患者の病的缺陥を奇禍とし、官憲がモルヒネ注射を交換条件として捏造的自白を強いたるものと伝えられている」『黒色青年』一〇号 一九二七年七月五日
『黒色青年』一九二九年七月一日、大邱における大衆的なアナキズム運動の動きを警戒した警察が治安維持法を駆使し椋本、栗原等を報復的にフレームアップ起訴したのが「真友連盟事件」のあらましである。
「長期の刑を終わり同志出獄す幸徳、真友両事件の人々」『自由連合新聞』一九二九.七.一
『自由連合新聞』四六号一九三〇年四月一日
「真友連盟の同志等出獄」
何の理由も泣く検挙され、不法にも治維法を適用されて以来三カ年を獄中に送った真友連盟員諸君はその後続々と出獄中であるが、去る
★自殺した(?)金子文さんのこと『黒色青年』一一号 一九二七年八月五日発行
大正十五年七月二十三日栃木刑務所の発表に拠れば、この日の未明監獄内は不気味な静寂に眠りつつある時、文さんは自殺して、永劫にぼく等から決別したと謂うのである。
何が故の自殺であるか? その原因について、将又その真相に至ってはぼく等はここに発表し得ないのを遺憾とする。
最後まで官憲の暴圧に抗争し、而しも自殺の数日前まで元気でいた文さんが、ふいと気まぐれな運命の戯れに取憑かれたと云ふなら、それは余りにも小説的な仮構である。
とまれ、文さんは死んだのだ。貧乏と迫害に虐められつつも、雄々しく勇敢に支配者階級と戦ひ、自由連合の社会建設のために努力したぼく等の得難き同志文さんは居ないのだ。むざむざと敵の手に葬むられたぼく等の胸中は………屍を踏んでもと決心さすのである。女性としてではなく、一個の人間として叫んだ文さんは斯ふ云っている。
「相手を主人と見て仕へる奴隷相手を奴隷として憐れむ主人、その二つながらを共に私は排斥する個人の価値と権利とに於て、平等観の上に立つ結束それのみを人間相互の間に於ける正しい関係として私は肯定する。」
その文さんも斃れて今は居ない。
★朝鮮真友連盟事件 『労働運動』一九二七年第五次、掲載
栗原椋本両君連座事件の内容と経過
布施辰治
高官暗殺官庁破壊の大宣伝で、朝鮮の上下を驚倒した真友連盟治安維持法違反事件の発端は、予審免訴決定に依ると、当時「慢性モルヒネ中毒病に罹り居たることは、本件証人森本巌、谷重栄作、並びに佐藤傳吉の各証言、及び被告人安達得の供述に徴し明かなり」と云う被告安達得が、「右破壊団の組織に付窃盗横領等の犯行により司法警察官の取調べを受けて居たる際、犯行に関係無く、右破壊団組織の事実を供述したるに出づる」もので、其の経過は「同人を調べたる司法警察官に対し、安達得は、被告人鄭命俊が破壊団の宣言書一通を持ち行きたりとの事であった」と記述して居る。
そして、其後の発展は、安達得の供述を信用した司法警察当局の「被告人鄭命俊に対する押収捜索並びに訊問の手続きを為すに至りたるものにして、其後他の被告人が右破壊団組織の事実を認むるに至ったものである」
夫れに、警察当局が「各被告人の経歴若しくは後に明記せられたる犯行の序説として記載せられたるに過ぎずと認めらるる被告人栗原一男が、大正一四年六月中、無政府主義に基づく社会を建設することを目的とする自我人社なる結社を組織したること、並びに大正一五年一月中、同様の目的を有する黒色青年連盟なる結社を組織したること。被告人金正根が大正一五年一月中、同様の目的を以て黒友会なる結社及び黒色青年連盟を組織したる事、茲に、被告人椋本運雄が大正一五年二月中前者と同様の目的を有する黒化社なる結社及び前示黒色青年連盟を組織したることの意見と、
處で、予審判事は、斯うした事件内容の起訴を(一)所謂破壊団の組織、(二)黒色青年連盟組織に分け、(一)の事実においては、「……右安達得に対する大正一五年九月一日付検事局尋問調書に、安達得は検事に対し本件関係人が、既決囚(当時安達得は既決囚として大邱刑務所に於て受刑中)を使嗾して真実の供述を為さしめざる様脅迫したりとの殆ど有り得可からざる事実の供述を為したる、記載あり、尚、安達得は、大正一五年三,四月頃栗原一男の大邱に来る前後、満鏡館において水害救済の講演不穏の言ありとて取り締りを受け、脱して被告人鄭命俊方に至りたるが、時恰も鄭命俊の父の誕生日に当たり居りたるが、其際、鄭命俊方付近にて朝鮮総督の暗殺を決議したりと供述せるも、右水害救済の事は、大正一四年七月中にして、真友連盟の組織は大正一四年九月二九日なり、又、鄭命俊の父の誕生日に相当する日、安達得の鄭命俊方に来たりたるも大正一四年陰六月一九日なりしことは、その後の取調べにより明らかなるが、要するに安達得の供述には明白なる矛盾を存す、既に右供述者が、自供の当時より慢性モルヒネ中毒症に罹り居り、且つ其供述に斯の如き矛盾の存する限り、同人の供述に基づき生じたる前示破壊団に関する事実の如きは他に何等的確なる証拠の存せざる限り遂に之を認むるを得ず』
と断案して免訴したのである。
又、当の安達得氏は「抑も今回の事件たるや、不肖の痴愚なる無思慮より発生し其の類を諸氏に及ぼしたる罪で、吾等人間として法律上よりは暫く措き道徳上よりして到底免る々処にあらず、不肖日々煩悶する次第、先生に対しても殊更不面目此の上なく羞恥の至りであります」という手紙を寄越して居る。
次に、(二)の黒色青年連盟等の組織に就いては、
「……被告人栗原一男の自我人社を組織し居りたる事実に付いては、其治安維持法第一条第一項に触るるものなることは明確にして、其他の金正根は椋本運雄等の結社組織の事実に付ては、其証據稍や明確ならざるものあるも之等結社の無政府主義を奉するものの集団なることは疑いを容れざる所、随て亦該結社組織の目的の那邊に在る矢も推知するに難からず、而市して、之等結社組織に付ては未だ当該犯罪地に於ても、治安維持法に触るるものとして訴追を為したる事無きが如く現に結社は存続せるところなるも、抑も治安維持法第一条は結社組織の目的が、苟も、国体の変革私有財産制度の否認に在る以上、他に何等此の目的に対する事実上の行為存在せずとも該犯罪成立に之を以て足るものと解釈す可く、亦斯の如きを処罰するに非ざれば結局該法制定の目的を達する能はざるものと謂う可し」
と云う治安維持法論をして居るが、アマリにも明確を欠いた起訴状を不当とした予審判事は、
然れれども……「今是等被告人に対する公訴事実を当審は右被告人栗原一男、金正根、及び椋本運雄に対する公訴事実は、同被告人等が、無政府主義に基ずく新社会実現の目的を達するためには暴行による直接行動を為す可き旨、真友連盟員に対し教嗾扇動したりとの事実の範囲を出でざるものと認むるを以て上記被告人三名の結社組織の事実は、正に法の正條に触るるものなりと雖も、之に付ては遂に公訴の提起無きものと認むるの外無きを如何せむ」
とて残念ながら免訴の決定したものであるだから、検事が抗告したのかも知れず、又それだから抗告裁判所では
「被告人栗原一男は東京市内に於て、同志松永鹿一、小泉哲郎、古川時雄、井上新吉等と共に無政府主義的運動を目的とする結社《自我人社》を、被告人椋本運雄は同じく東京市内に於て深沼弘胤、麻生義、前田淳一等と共に同一目的を有する《黒化社》なる結社を組織し、又被告人金正根は朴烈こと朴準植が組織したる無政府主義的結社なる《黒友会》に加盟し、朴烈下獄の後は其の首領として現に同会の牛耳を執りたるが、同被告人等は相謀り、汎く全国に於ける無政府主義的思想の懐抱者を結合統一して其の目的とする理想社会の実現運動を促進せしめんことを企画し、大正一五年一月中、右被告人等の組織せる自我人社、黒友会、及び黒化社を中心として、黒旋風社、解放戦線社、自由労働運動社、関東労働組合連合会、其他各地の無政府主義傾向に在る団体を糾合して黒色青年連盟なる一大結社を統合し、其の本部を東京市内に置き爾来被告人等は主動の位置に在りて不穏文書の配布、通信集会協議、其他の方法に依り同志間に於ける連絡を密接ならしむると共に其の目的達成の為には騒擾暴行其の他生命身体又ま財産に危害を加ふべき犯罪を暗示せる所謂破壊的直接行動に依るの外なき旨を以て内地並に朝鮮に於ける同志を激励煽動し居りたるものなり」
と決定して、前の免訴を取消し、更めて公判に附したのである。
朝鮮大邱に於ける真友連盟の事件の真相は以上布施氏の報告によって尽くされている。我等の同志に加へられつつあるこの強暴なる迫害に憤起した黒色青年連盟は、去る6月23日及び7月4日、朝鮮総督府東京出張所並びに司法省に殺到し、次の抗議書を突きつけて同事件の関係者の即時釈放を要求した。
抗議書
現在、朝鮮大邱府大邱刑務所に捕われつつある同志椋本運雄、栗原一男、金正根の三名は大正15年8月、朝鮮官憲の依頼により警視庁より護送されたものである。該検挙の理由は、予審決定書の示す通り、只無政府主義者を抱懐するという実に根拠薄弱なものであり、且つ直接的原因なる朝鮮真友連盟の爆破事件なるものの真相も、一モルヒネ患者の病的缺陥を奇禍とし、官憲がモルヒネ注射を交換条件として捏造的自白を強いたるものと伝えられている。而も此の事件は、第一回予審に於て免訴となり、検事控訴により覆審院に廻付され、改めて10年の求刑を受けたものである。
万人が等しく此の事件を捏造的事件であると見做しているにも拘らず、独り官憲のみが何等かあるものの如く取り扱ふは、必ずやそこに何等かあるものの如く取扱ふは、必ずやそこに何等かの魂胆があってのことは明らかである。尚又、現在台湾にこれと略同様の困危に遭遇しつつある黒色連盟事件がある。 我等は飽まで此の不法監禁に反対すると同時に、両事件の同志全部の即時釈放を茲に要求する。
昭和2年6月23日 黒色青年連盟
★<金君の訃>六月一五日附 『自由連合新聞』掲載
先に報道した朝鮮大邱に於ける真友連盟事件のために、無実の罪を負わされて五年の刑を受けることになっていた、同志金墨君は肺患重って貴付出獄で京城の父君の許に静養していたが、病勢あらたまり、<一九二八年>八月六日終に逝いた。
…… R君よ!朝鮮衣服のの事は実に有難く思います。実は僕の朝鮮衣服は京城の父親宅から送って貰って、今まで着ています。君から来た着物は、椋本、栗原両君の中で誰にでも入れてやる積もりでいたのです……。
矢張り通信不自由で、こちらから出すには、何らかの理由を附なくては、特別の許可が出ない訳である。受ける方の手紙は比較的にいいようですから、誰でも手紙は読みたいですから、お頼みします。
それは日本の社会運動-労働運動や無政府主義運動は、縮めて言えば、恰度××××不徹底な人間である。
だから、メーデーを千番やっても、労働組合を万組作ろうが、或いはコミュニストが百万人になったとて、それが何に役立つのであるか?こうしたことを長々と言いたくもない。それは僕自身が×××であるからである。
僕はこうした一切の欺瞞的な運動を軽蔑し排斥する。(四、二五)
★ 「真友連盟の同志等出獄」 『自由連合新聞』四六号一九三〇年四月一日
何の理由も泣く検挙され、不法にも治維法を適用されて以来三カ年を獄中に送った真友連盟員諸君はその後続々と出獄中であるが、去る一月二十四日と二十五日に馬鳴、禹雲海の両君は元気で出獄した。目下大邱の自宅で静養中であるが伝うるところに依れば、馬君は約一週間前、犯人逮捕を妨害したとかで再び「公務執行妨害」とういうイイ加減な罪名で検挙されている由。
略クロニクル
1926年8月、検束 真友連盟治安維持法違反被告として大邱に送られ 絶食抗争
1927年3月7日、一旦予審免訴の決定 執拗な検事の抗告
5月12日、予審免訴取り消し、公判に附する有罪決定
5月26日、公判
6月9日、公判
6月14日、公判
6月25日、決定言い渡し
警察当局
栗原一男 1925年6月、自我人社組織 1926年1月、黒色青年連盟組織、
金正根 1926年1月、黒友会、黒色青年連盟組織、
椋本運雄 1926年2月、前者と同様の目的、黒化社、黒色青年連盟組織
水害救済の事は、1925年7月中にして、
真友連盟の組織は1925年9月29日なり、
また、鄭命俊の父の誕生日に相当する日、安達得の鄭命俊方に来たりたるも1925年陰6月19日なりしことは、
その後の取調べにより明らかなるが、要するに安達得の供述には明白なる矛盾を存す