落ち着け。

 

人を恨んで自分をダメにするな。

 

 

by  ヘルベルト・フォン・カラヤン

 

 

 

 

 

 

『 交響曲第9番「新世界より」第4楽章 』

カラヤンの指揮が好きです。

 

 

 

 

 

 

「理解」という言葉をメディアでみかけるのですが、だいたいは、理解が足りない、とか、理解がなくていいのか、というもの。それに付随して、説明が足りない、というのもある。

 

一度説明がなされたならば、その説明のどこの何についてどう説明が足りないと、具体的に問い返すことが建設的な議論であろうと思う。足りない、足りない、だけでは前に進まない。

 

問題なのは、「理解」という言葉が、まるで万能な武器というかマジックワードみたいになって、対処していかないとならない物事を滞らせ、分断させ、更に真の理解から遠ざけていることだと思うけど、どう?

 

 

 

 

 

 

あれれ、もう金曜日がくるよ。

 

 

みなさまに   おいしい金曜日を。

 

 

本日もありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

こんばんは。

今日もおつかれさまです。

 

 

やっぱりね、見ていて思うことは、向井君、元気君、がんばったね、がんばってるね、、、というところかな。美和子や麻美の気持ちについて、いろいろ察して見ていても、そう思ってしまうなあ。美和子や麻美を、あんな感じで見ると、わたしには、男性のほうが同情的に際立ってくるよ。

 

向井君も元気君も、足らないところはあるけど、すごく独善的でもないし、むしろ相手のことを思いつつ、理解しようとしているのが見えたしね。

 

という感じもある。

 

 

 

 

それでも、男性みんなが、

じゃあ、いいよ!わかったよ!

もう知るか!勝手にしろ!

という感じにもならず、気持ちを向け続けてくれているのが特徴でもるよね。

最後の向井君だって、考えて考えて考えた結果だもんね。

 

 

 

気持ちを向け続けられているという点では洸稀も同じだけど、何気に、一番不器用かもしれない洸稀説もあったりして。洸稀は、いろいろな言葉を使っているけど、心理的なセーフティゾーンからけして出ない。セーフティゾーンから出ないのは誰ものことだけど、その為により感情を隠してるようにも見えなくもないなあと。それも大人だからという、説明になるかもしれないけど。洸稀の本音は吐露されるのかな?どうかな?

 

 

 

 

 

 

 

ということで、

美味しいもの食べてますか?

 

あなたに   おいしい金曜日を。

 

それでは

今夜も

ぐっすりと

おやすみなさい。