とあるドアマをみてその中のセリフを聴いて、また同じタイミングである建築家さんの言葉を聴いて、そこからつながっていった事などを書いてみようと思います。
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ある建築家の言葉です。
「建築が建築になるとはどういうことか?
いわゆる巣から建築になる時、何があっているのか?
それは自然にはない秩序が産まれる時。
幾何学による秩序。」
※注:建築界ではいわゆる「建築」とは、ただ物理的な建物のことを指すだけでなく、
建物に込められていたり、できあがるまでの思考プロセス、概念、コンセプト、その組立なども意味することがあります。そこから「建築する」という言葉もあります。
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ある有名な音楽家(たしか?モーツワルト)の言葉です。
「音楽とは音に秩序を与えることである。」
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あるドラマのなかでの言葉です。
「人は自然の生き物なので人のすることは全て自然の範疇だと思います。
人に一からハチミツを作れといっても、多分無理でしょう。
植物のように光合成で酸素をつくろうとしても、まだ同じようにはいかない。
そんな神の領域のようなことをかられは自然にやっているわけです。
だとしたら、人がする発明や革新的技術を産み出すこともまた自然の範疇だといえるのではないでしょうか?」
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これらの言葉は一見ちがうことを言っているように見えるところもありますが、根元は同じです。視点がちがうだけです。
以前、わたしはこのブログで自然と非自然について少し書きました。わたしたちが、手にするものほとんどが非自然だと。それは人間の秩序、合理性にそったものが私たちの手に入っているからです。たとえば自然な食品といっても、人間が営みのなかで生産し、人間の作った流通にのり、通貨をもって売買され、そして手元に届きます。山から直接とってきたものでもあれば、自然に近いかも知れないですが、それでも人間の秩序に入り込んだ時点でそれは必ずしも完全な自然ではないのです。自然な食品というのは、あくまで科学的肥料や添加物がないもののことを指すのだとしても、そうであるなら、実はなおさらに自然という概念は非常に曖昧になっていると感じます。
上のドラマの視点で言えば、人間のすることも全て自然です。そして建築家の視点いえば、大きな自然の中で、建築や音楽や発明や技術革命は、人間以外のものたちとは異なる非自然となります。
ここで誤解のないようにしたいのは、わたしは自然や自然な食品やいろいろを否定しているわではありません。むしろ好きです。そして思い出すのですが、ワクチンの賛否をここで言及するわけでもないですが、ワクチン議論で当初から違和感としてあったのは、ワクチンの賛否の議論の際に、表面では安全性について議論しているようでしたが、実のところは、この自然と非自然の感覚の曖昧さから議論が空転していたようにも感じていました。感情による議論の空転のため、本来目指すべき安全性の議論や認識の真の深まりにいたらなかった。自然派と言われる人達による、かたくなな言説の方が、私には自然ではないようにも感じられたほどです。
人間の世界で起きていることは人間の手で解決したり対応するというのが基本です。たとえ地震や病原菌などといった人間の手によるものでなくても、その対処は人間の手でなされます。それが人間の世界の秩序です。人間は人間の秩序や流れにのって生きているのです。そういう流れの上で自然であるか、ないかという感情だけで、対処する手立てや技術を否定するのはナンセンスだということです。
ワクチンとか5Gとか、昔には、写真とか、天動説と地動説とか、新しい技術や発見がうまれる度に、そんな感情論で否定されてる技術の歴史もあっていて、もちろんトライがあればエラーもありますが、そんなトライ&エラーも人間の秩序の道筋なのです。
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上の言葉たちのように、
それは非自然かもしれないし、全部自然かもしれない。
ただ否定するのも賛成するのも人間です。
上のドラマの言葉はさらに続きます。
「、、、だとしたら、人がする発明や革新的技術を産み出すこともまた自然の範疇だといえるのではないでしょうか?」
「 だから、あなたも (不自然であるとか、ないとかでなくて)
出来ることで、したいことは、したらいいと思う。」
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この自然のなかで、ここまで大きく 非自然さやトライ&エラーを許されているは人間だけかもしれません。だって自然はあるがまま、ですから、トライとかエラーとかいう概念すらありません。
そして自然からみれば、非自然さやトライ&エラーが人間のあるがまま、だからなのかもしれません。
ということを思ったので書いてみました。
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皆様が今日一日心地よくすごせますように
おはようございます
今日もおつかれさまです。
メタバースの世界に興味がわいているこのごろです。
なかなかおもしろそうです。
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今日もいい天気。
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嘘というと、去年やっていたあるドラマを思い浮かべます。
最近、よくみかけるパラレルワールド落ちの物語のように、現実とは別の世界に移行するのではなく、現実の世界にすむ関係者みんなが現実に住みながら、何かのため誰かのために、真実とは異なる別の世界を作りあげようと、時に傷つきながら、それぞれが大小の嘘を抱えていく様がありました。法律や真実では救いのある解決はできないから、愛のある嘘をもって現実の中に救いある世界をつくりあげようとしたそれぞれの愛と、そして真実に気づきながらも、愛をもってその嘘を受け入れる姿がありました。そこの葛藤や慈しみに深みがあったように感じました。
メタバースは仮想ですが、現実ではないという意味では嘘と同じ要素があるだろうと。現実世界の重力や見た目や自然の法則から自由になることで、救われるなにかがあって、それを求めているところがあるのだろうと。そして、メタバースの興味深いところは、メタバース内の出来事やたとえば心境の変化が現実の世界や心身に逆流・変化をさせる可能性が多分にあること。
古いSF小説の「クラインの壺」では今自分は仮想世界にいるのか?現実世界にいるのか?わからない、、、という状態に陥っていましたが、そういう状態も可能性としてあるだろうと。
アニメ映画「サマーウォーズ」では破壊者が現れ、現実の世界も破壊をしようとします。
結局のところ、現実でも仮想でも最後は 「愛があるか」になっていくのだろうなあと。
うえね自然か、そうじゃないかって話も、根元にありのは同じだろうなあと。
どこかのCMのように、あいが無くなったら、あ行は、うーと、えーと、おーだけになってしまう、、、というだけではないかもしれない。
愛しい嘘。「愛しい」ここが根幹だろうと感じていて、まだまだ序盤でそこに至っていないけど、やっぱりそこだなと、思ったのでした。
ということで
今日もあなたがすこやかにすごせますように
それでは
おはよう
こんにちは
いってらっしゃーい