濃い人生!!!ゴッホくん
しかも純度が高い!!
✨✨「ゴッホと静物画ー伝統から革新へ」SOMPO美術館✨✨
ゴッホが生涯に描いた油彩画850点のうち、
静物画は170点ほどとされている。
画家が主観で描ける静物画を描くことで、
練習のつもりで静止画を描き、
独自のスタイルを身につけたと言われる。
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つまりは、
ゴッホが
どうやってゴッホになっていったのか。
初期のことがたくさんわかるのが静物画
ということ?!
これはすごい展示だったのかも。
(今さら)
かの有名なひまわりさん。1888年
35歳のゴッホはアルルに到着した8月に「ひまわり」の連作に着手し、これは
ゴーギャンとの対立があった前後の11月下旬~12月上旬に描かれたと考えられている。
花瓶に入ったひまわりさんは7点あるそう!
水彩画のひまわりなどをいれると11点とか。
ほほほう。
7点ももちろんすごいけれど
モネの睡蓮さんは200点というから、、モネすごすぎる。
ゴッホが亡くなる数か月前に描かれたのが「アイリス」1890年
カーマインとプルシアンブルーを合わせた紫の花束を鮮やかなレモン・イエローの背景に描き、対極にある色を互いに高め合う効果を狙ったとゴッホは語っている。
ほおおおおお。
キャンヴァスではなく板に描かれた作品。
三冊のタイトルはいずれも市井の人々の現実を描いた自然主義文学。
作品の裏面の板には日本製品の輸出販売会社の名前が漢字で記され、当時パリにいた34歳のゴッホの日本への興味関心があったとされる。
へぇええええ。
1888年12月にゴッホとゴーギャンは激しい対立、耳切り事件などが原因で共同生活に終止符を打つ。
ゴーギャンはアルルを離れ、
ゴッホは精神病院に入院。
数週間後、退院したゴッホが描いたとされるこの作品には、タマネギ、ロウソクと燭台、本やパイプなどゴーギャンと暮らしていた頃に描いた絵に登場したモチーフが並んでいる。
ふむふむ。
わたしには、、唯一この絵が
とても明るい情景にみえる。
良き思い出的な。
さてさて
そもそも
ゴッホは
1853年にオランダ南部で誕生したフィンセント・ファン・ゴッホ。
生涯数点しか作品が売れなかったため、“生前は評価されなかった不遇の画家”と知られている。
16歳から美術商として働くも23歳で解雇され、
父のような牧師を志すも失敗。
27歳頃から農民の働く姿を描くようになり、弟テオの勧めで画家になる。
ドイツで絵を学び、故郷オランダで農民や農民の生活を描いたゴッホは33歳でフランス・パリへ。
35歳頃に運命的に出会ったポール・ゴーギャンと南仏アルルで共同生活。
しかし、ゴーギャンと意見が対立、ゴッホが自らの耳を傷つけるなどして9週間で破綻。
その後は精神病院で療養しながら制作。
37歳で静かな農村オーヴェールに転居してほどなく、麦畑で自らを銃で撃ち短い生涯を終える。
10年あまりの濃密な画家人生ながら強烈な個性。
事物の最も深い真実を描き出すために、それまでの絵画の伝統的法則を無視し
線や色彩を自由に扱い、絵画において自らを表現する事を始めた最初期の画家。
モネなどが光や大気の移り変わりをキャンバスにとどめた印象派に対して、それを乗り越えようとする新しい絵画運動をしたというポスト印象派を代表するのがセザンヌやゴーギャンやゴッホ。
今回の展示では
ゴッホが影響を受けた画家たち
色彩を影響うけたモネ、ドラクロワや
ロートレックやルノワールの作品も。
天才は天才として湧き出ているのではなくて
天才はしっかり基本も練習し、
色々なものや人からインスパイアされていたんですねーーー!
ゴッホというと弟テオくん。
生涯支えてくれたテオくんへの手紙を読むと