睡蓮に足をつけてみた
モネ100%
✨上野の森美術館にて「モネ 連作の情景」✨
印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ。
今展では、モネの多くの作品の中でも「連作」に着目。
国内外40館以上から60点以上を厳選した「100%モネ。」の展覧会
美術に興味有無関係なく
モネさんは本当に見事にみんなに知られていますね!
ああ、睡蓮ね!と。
その睡蓮に足をつけてみました♡
イマーシブ体験のできる昨今は
面白い機会がたくさん。
たくさんたくさん
モネさんのふんわりした綿飴みたいな絵に
可愛らしい色使いに
触れると自分の角が取れる気がします☝︎!
クロード・モネ さん
↓↓↓
そこで、ルノアールやピサロなど同じ「印象派」の画家として活躍する人たちと出会いました。
モネは1865年からサロンに作品を出し始めましたが、始めはなかなか認められず、経済的に苦しい生活が続きました。
そのうち、印象派の画家仲間と新しい「表現」を生み出し、サロンから独立した展覧会を開催し始めます。
そうして、1874年にパリでモネ、ルノワール、ピサロ、ドガら30人で構成した画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社による「第1回展覧会」が開かれました。
この展覧会を見た批評家のルイ・ルロワは、モネの絵「印象・日の出」を取り上げて、パリの風刺新聞に冷笑したような記事を載せました。その記事に書いた「印象」という言葉が発端となって「印象派」という名称が生まれたのでした。
1870年に起った「普仏戦争」の兵役を逃れるため、モネはロンドンに渡って画商のデュラン・リュエルと知り合いました。
モネは、生前ほとんど絵が売れなかったゴッホなどと比べると、かなりの恵まれた画家!
結婚し家族に恵まれ、セーヌ川沿いの町で晩年まで穏やかに暮らしました。
1890年代には画家として認められ、徐々に名声が高まっていきました。
裕福になっても、モネは慢心することなく「睡蓮」などの連作に挑み続けました。
晩年は白内障による視力障害に悩まされましたが、ただひたすら創作に打ち込み続け86歳の生涯を閉じた。
ザクっと言うとこうですが、、、もちろん
ウォータールー橋
同じ場所を違った時間や季節を通じて
連作するモネさん。こちらも次のと、、、
連作◡̈⃝✩‧₊
写真こそとれなかったけれど
積みわらシリーズなんてもう間違い探し状態!
かの有名な睡蓮は200点あるとか!!!
チャリングクロス橋 1903年
このパステル感はスゴイ。
なんでも白黒とくっきりしてたらイイわけじゃない、、、きがします(笑)
芍薬 1887年
睡蓮の池
撮っていい睡蓮とだめな睡蓮があるのと
睡蓮のなんとか、がいくつかあって
素人の私にはその違いがまだわからず。
いつかわかる日がくるのかも??
ある意味、見せてもらう側も鍛錬がいるかもしれません◡̈⃝✩‧₊
こんな濃い絵もあるんですね!
そしてこれが有名な
昼食の絵。
この絵がサロンに落選していなかったら、、、
モネの印象派はどうなってたんでしょう?!!
人生って不思議。
『モネは本作品を1870年のサロンに出展したものの落選、1874年に自身も含む若手画家達で開催した第一回印象派展へ出展しています。
1870年のサロンの審査員を務めていた画家のジャン=フランソワ・ミレーやドビーニが本作品を評価したものの落選してしまったようで、ドビーニは抗議のため審査員を辞任しています。
当時は、宗教画、歴史画などが主要な作品で、生活の一部を描写した本作品は、サロンには理解されなかったようです。
食卓に座しているのは、後に妻となるカミーユと息子のジャンです。向いの空席はモネの席だと思われます。』
と言うことで
素人の私には一挙に同一画家の作品を
時代とともに見れるのはありがたい機会でした!
とかいいながら
連作って一つ売れたら全部売れるから得なのかな、とか下世話なことを思いつつ。
まだまだ何にもわかっていないワタクシでした。
言い訳がましいけれど
わかっていないからこそ、みる。
これ大事。
興味ない、の一言はとても勿体無い。
わかっていないことを覗く👀、
見たけどよくわらなかった、
という機会が
のちのち
好奇心になったり
情報がきたり
ある時つながったりするからね♡