アラン著 中村雄二郎訳 「哲学概論」 白水社

 

第一部 感覚による認識

第6章 空間

 

 

サイコロの定義

 

サイコロは立方体である。

 

立方体とはどんなものか

 

全ての稜線と角と面が相等しいという

 

定義があるだけだ。

 

誰もがこの定義を復唱して

 

目の前の立方体を眺めたり、考えたりはしないはず。

 

人はあらゆる事柄を当たり前として認識している。

 

サイコロが立方体だとわかっていることに何の疑問ももたないように。

 

幾何学者には武器が二つある。

 

それは「距離と方向」である。

 

点や線や面を黒板のチョークで勝手になぞらせて物に関する

 

形式を設定している。

 

形式は分割できないのだ。それ以上。

 

だから頭の中はそれが当たり前で、それ以上は無いと言う。

 

目の前にある「もの」は自分で探求し、想起し、推理して「認識」を

 

形作ることが大事であるのに。

 

決して距離や方向、大きさ空間などを科学的に経験的に

 

あたかも「もの」を人工的に「翻訳」された認識を「常識」として

 

見たり判断したりしてはならない。

 

自分が判断した結果「もの」として認識し決定することだと

 

アランは教えてくれる。

 

皆が言っているから

 

皆がやっているから

 

皆が当然としているから

 

というのは

 

厳格な形式の中で外観を理解しているにしか過ぎない。

 

様々なものを秩序付けているにしか過ぎない。

 

思索を正しい道にさし向けるためには

 

経験のうちで保持し、確認することだと言う。

 

なぜなら

 

感覚の対象は空間によってのみ秩序付けられ、区別され、知覚されてはいるけれど

 

空間は感覚の対象ではないからだ。

 

空間は連続したもの。分割できぬもの。空間は小石があるようには存在しないからだ。

 

つまり空間とは分割できない「経験」なのだ。

 

哲学するとはそういう事である。

 

あなたは哲学者になるかそれとも幾何学者の武器に頼るか

 

さて、、、

アラン著 中村雄二郎訳 「哲学概論」 白水社

 

第一部 感覚による認識

第5章 感覚印象

 

 

 

さて、

 

私たちの感覚のうち

 

知覚・触覚・視覚など感覚される全てのものは

 

予想を伴わない

 

これは真の感覚ではない。

 

これらは

 

人為的に組み立てられた知覚であって

 

想像上の知覚ではないのだ。

 

凸凹としていると言われればそう見えるし、

 

そう認識されていれば「そうなのだ」

 

これは真の感覚ではない。

 

それを常識としていることもいかがなものかと。

 

 

真の感覚とは

 

自身で推論し、判断をし、予想して

 

今目の前に示されているものは

 

 

なんであろうか?と

 

自身で決定をして、努めなければならないとアランはいう。

 

夢とか半睡状態とか

 

目覚めなどのある種の説明しがたい状態が「考える」である。

 

しかも

 

「考えずに考える」であると。

 

変化と新しさではなく

 

根源的な印象、直接に与えられたものを

 

 

あるがままの姿で

 

 

「推論して行かなければならない」

 

 

余りにも我々の日常は与えられた「印象」でしか考えて過ごしてはいないであろうか?

 

 

自分で自分の印象をもって「考える」ことが必要ではなかろうかと

 

アランは言っている。

 

 

アラン著 中村雄二郎訳 「哲学概論」 白水社

 

第一部 感覚による認識

第4章 感覚の教育

 
 
 
物の判断は認識という。
 
認識には
 
見る・聴く・触るという運動。
 
運動とは行動である。
 
しかし普段私たちは「そう行っている日々を習慣としているだけ」
 
実際には
 
与えられているものを考えや確認や学習もせずに
 
「そう思い込んでいる」これが現実である。
 
テレビのニュースで見たことは本当の話か
 
チラシで書いてあることは真実か
 
ネットショッピングで購入先にクレジット番号を記載することに疑いはないか
 
販売員が説明する商品の記事が本当に正しいのか
 
 
「そう思い込んでいる」のだ。
 
 
実際は
 
物を見て、触って、聴くなどをして一つ一つ学習をした結果
 
判断をすることだ。判断とは認識することである。
 
だから目の前にあるものと
 
学習され、判断したものをしっかりと「区別すること」である。
 
物事は
 
相手が物であろうと人間であろうと
 
常に
 
「観察」と「推理」によって学ぶことだ
 
 
とアランは言っている。
 
 

アラン著 中村雄二郎訳 「哲学概論」 白水社

 

第一部 感覚による認識

第3章 運動の知覚

 

 

 

電車に乗っている時

 

ふと窓から風景を見ていると

 

見える木々は進行方向の逆に

 

走って消えているように錯覚する

 

 

月に向かって走っていると

 

月がだんだんと大きくなってくる

 

月もこちらに向かってくるように錯覚する

 

 

「錯覚」というのは「見える」と言う事である。

 

 

ものの運動による

 

「見える」という「錯覚」はある定点の位置をお互いに見方を変えてみると

 

「見える」が「見えた」にかわる。

 

物の運動とは一つに分割できない全体であるため

 

定まった点をただ予想通りに運動しているだけだ。

 

移動しているのではない。

 

なので

 

この定点の見方を、見る視点を変えることによって

 

見えていたものが「見える」し、

 

見えていなかったものが「見える」し、

 

そう思っていたものが「見えなかったり」「見えたり」と、、、

 

動いているものの見方は人によっては大きな差があるのだ。

 

動いている全体を見るのではなく

 

定まったある一点をお互いに比較検討をして見ることが大事。

 

どちらが正しいのか

 

どちらが真実なのか

 

 

は分からないけれど。

 

 

そう見ればそう見えるけれど

 

思索とはそういうものである。

 

 

 

 

アラン著 中村雄二郎訳 「哲学概論」 白水社

 

第一部 感覚による認識

第二章 感覚による錯覚

 
 
 
大きな箱と小さな箱を見る
 
さてどちらが重いでしょう?
 
となると
 
多くの人は感覚的に「大きな箱」と答えるのが普通。
 
しかしこの「普通」というのは決めつけられた「錯覚」であろう。
 
当然大きいからと言って重いとは限らないのである。
 
錯覚とはズバリ思い込みのようだ。
 
 
感覚による認識は間違いがとても多い。
 
それは「物」の判断に誤りがあるからだ。
 
これをただすためには
 
「ものの認識」を曖昧にせず、正確にすることだ。
 
「正しい秩序」「正しい規則」「正しい計測」が
 
前提となって初めて正しい感覚を認識つまり判断できるのだ
 
だから
 
自己と事物または他人を「正しい判断」で
 
見分け区別しなければならない。
 
フランスの哲学者「ラニョー」はこう言った
 
「考えるとは計る事だ」と。
 
そして
 
アナクサゴラスの有名な言葉に
 
「すべてはひとかたまりであった。だが、悟性というものがやって来て
 
全てに順序を与えた。」
 
 
それ以上分割できない物の形、大きさ、距離など様々な形式と
 
科学的、数学的に正確な知覚によって「認識」するべき「内容」を
 
はっきりと区別しなくてはならない
 
錯覚は目隠しで消えるから

アラン著 中村雄二郎訳 「哲学概論」 白水社

 

第一部 感覚による認識

第一章 感覚による認識のなかでの予見

 

感覚はどのようにして認識されるのだろう

 

感覚は自己と事物の間で

 

考え、感じる(予感した)思索(物事を吟味すること)によって

 

認識されるものだ。

 

 

事物と自分、他人と自分を区別して

 

そこによく吟味し、思索することが大事である。

 

例えば

 

サイコロが立方体であると言う事実は

 

感覚、知覚、触覚という理性によって

 

判断された関係

 

認識の形式と内容の区別が大事である。

 

しかし

 

吟味すると言う事は「地面に座っていてもだれもその思索には入ってこないので

 

大丈夫だ!誰も邪魔はしない」

 

しかし

 

一歩間違えれば

 

傲慢となるので注意したい。

 

 

物の知覚、触覚、視覚は全て理性で判断されたものだ。

 

 

それはすべて予感されたものだ。

 

 

物事を吟味する。

 

自己を意識する。

 

物事を思索する。

 

これが哲学である。

 

 

自分の心に入り、自分で考え、自分の心に問い

 

そして疑う。

 

こういう態度は

 

とても良いことだ(内省のこころ)

 

しかし

 

一歩誤れば

 

傲慢となるつまり「意固地」

 

これに注意することだ。

 

思索とは自己との会話のようなものだ。

コへレトの言葉

 

 

知恵が深まれば悩みも深まり

 

 

知識が増せば痛みも増す  (1)

 

 

 

神は人間をまっすぐに造られたが

 

 

人間は複雑な考え方をしたがる  (8)

 

 

ということ

 

 

旧約聖書P1042日本聖書協会

 

 

 

旧約聖書の中にコへレトの言葉というものがある

 

 

「1」と「8」のことば

 

とても心に響きますね。

 

 

アランの言葉の中に

 

「知恵がお皿にのせて差し出されるようなことを断じて期待しない」という

 

哲学概論:アラン著:中村雄二郎訳  白水社2012  P405

 

 

アランとコへレトの言葉中に何か共通するものを感じられる。

 

 

せっかく神様は人間をまっすぐに造られた・・・・のに・・・

 

 

知識や知恵がそれを邪魔をする

 

 

知識や知恵でどうにもできないのに・・・

 

 

知恵や知識を期待せずに

 

 

「風を追うようなことだ」とコへレトはいう。

 

 

自然に任せ何も変わらないことに

 

 

自然があるのだと。

 

 

海にそそぐ川の流れのように

 

繰り返させる

 

その風のごとく過ぎ去り

 

風のごとく繰り返さされることに

 

 

身を任せよう

 

 

それが空しさというものなのだと。

 

 

 

 

ムラのミライの「中田豊一」氏が

 

著書「対話型ファシリテーションの手ほどき」で

 

「考えるな!思い出せ!」という。

 

日常の患者さんとの会話や

友人との会話の中で

 

 

「良く読書する時間なんてありますね?」

 

と聞かれるので「なぜですか」と聞くと

 

「私なんか・・・・だからと返事する。」

 

その

 

「・・・」の中の中味はこうだ

 

 

「毎日書類の作業があるから読めない」

「好きなテレビの動画が今日上映されるので見なければ」

「子どもがなかなか寝てくれないので時間が無い」

「夫が何時に帰って来るのか分からないので時間調整ができない」

 

 

まあまあ

 

よく出てくるもんだ

 

 

これらはみんな「それぞれの言い訳」なんですよね?笑

 

 

これに対して

「なんで時間が無いの?」だなんて

 

 

質問したりすると

 

もう聞く事が癖癖する。

 

なぜならば

 

「言い訳を聞く事だから」

 

 

だから「なんで?」とは聞かない。

 

ムラのミライの「中田豊一」氏は

 

 

相手に質問をする時は

 

「なんで?」とは聞かないで、

 

どういう習慣が言い訳の対象となったのかを

 

「思い出させる」

 

 

と言っている。

 

 

考えさせてはいけないと、、

 

 

考えさせると

 

 

言い訳しか出てこないから。

 

 

だから

 

 

子どもが泣いている時間はいつだったの?

 

その時あなたは何をしていたの?

 

子どもが無く前は

 

子どもは何をしていた?

 

子どもはその前は何時ないた?

 

 

というように

 

 

思い出させることによって

 

 

自身の言い訳が誤っていることに気が付くと・・・

 

そして

 

 

読書する時間はどこにあるのか

 

 

を自身で見つけられるものだと

 

 

 

言っている。

 

 

 

なるほど

 

 

参照文献:中田豊一著:認定NPO法人ムラのミライ出版

 

今からおよそ70年前に

 

哲学者「三木清」はこう言った。

 

「死は観念である」と。

 

三木清全集(第一巻:死について  P195)  岩波書店1966年

 

「執着するものがあるから死にきれないと言う事は

執着するものがあるから死ねると言う事である」

 

「私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の

永生を約束する」

 

素晴らしい言葉・・・

 

 

執着するものとは何であろうか?

 

今の自分の視覚からとどく全ての視界の世界を欲しる

 

今の空の向こうに見えるかもしれない

 

何ものかにあこがれを抱く

 

欲しる・抱く・夢見る・希望する・期待する・・・

 

確かにこういった前向きな情念は死にきれない

 

 

しかし三木清は

 

「執着するものがあるから死ねると言う事である」

 

という。

 

 

この真逆のように聞こえるセリフ・・・

 

まるでレトリック・・・

 

 

つまり執着するものが無ければ死ねると言う意味であれば

 

執着してはいけないのだと言う考えから

 

脱皮して考えれば

 

執着してもいいのだと

 

といえるのだ。

 

 

つまり

 

 

「執着するものがあるから死ねる」のである。

 

 

三木清の「人生論」にそう書かれている。

 

 

そう、だから

 

「私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の

永生を約束する」

 

と三木清がいう。

 

「死について」

 

人生の色々に

 

いっぱい 捨ててもいいんだよ

 

全部無駄にしてもいいんだよ

 

全部なくしてしまっても構わないんだよ

 

でもそれって

 

全部自分自身の「執着じゃないか」

 

だったら

 

そのことこそ真の生だよって。

 

 

「死は観念である」

 

とは

 

死はそれぞれの考え方なのだ。

 

 

しかし

 

心の生はこうして生きている。

 

 

最後に三木清はこう言っている

 

「問題は死の見方に関わっている」

 

 

と。

 

 

なかなか

 

やるなあ

 

三木清 大先生。尊敬します。

 

 

 

 

 

ゴブセップを再読してみた

 

 

このゴブセップのことを

 

アランは

 

「人間とはいかなるものであるか」を

 

明瞭にあらわしてくれる。

 

 

と言っている。

 

アランは

 

「コブセック」は漂着物の略奪者にすぎない」

 

という。

 

 

このバルザック著の「コブセック」は

 

高利貸しが主な仕事。

 

つまりひとにお金を貸すのである。

 

しかしその貸方に様々な人生観が読み取れるというストーリー。

 

 

グランリウ子爵夫人の愛娘カミ―ユがレスト―子爵青年を愛する

 

しかし

 

グランリウ子爵夫人はこの青年の母親の

 

生い立ちの悪さや金遣いの荒さから

 

結婚を反対している。

 

一方

 

レスト―伯爵夫人は病弱な夫を見捨てて

 

マクシム・ド・トライユという男性に浮気をし

 

この男性に貢ぐしまつ。

 

夫のレスト―伯爵は自分が死んでしまう前に

 

財産を隠さねば取られてしまうと考え

 

友人になった高利貸し屋のコブセックに

 

財産を渡す。

 

しかし、レスト―伯爵が死んだあと

 

財産はコブセックに行くのであるが、

 

コブセックが死亡したあと財産は

 

 

レスト―子爵青年にすべてわたると言う仕組み。

 

 

財産がすべて自分のものになると思っていた

 

レスト―伯爵夫人は夫が死んだあと

 

半狂乱になって契約書を探し、だまされたと思い

 

暖炉に焼き捨ててしまった。

 

浮気相手はイタリアに逃亡した。

 

 

コブセックの高利貸しとしての行動・・・・・

 

 

人間模様は如何に・・・

 

 

コブセックは高利貸しという職業を通じて

 

浮気中の妻に渡す財産は無いと死ぬ間際に

 

伯爵から財産をもらい。伯爵を助けた良い人生。

 

しかし

 

自分が死んだときにはその財産は無くなると言う

 

 

さみしい人生。

 

コブセックの人生は

 

たった一人で生活をし、全てを軽蔑して

 

粗野な人間としてパリで生涯を終えたという。

 

 

人間とはいかなるものか

 

人間はお金のためなら何でもする

 

人間は欲情摩である。

 

そのためなら何でもする

 

欲情摩は愛も情けもない

 

アランの言う

 

人間とはいかなるものか

 

 

考えさせられる