今日、ナイストのミレニアムホール(大学で言う体育館?)であった授業で、質問したいことがあったのだけど、手を挙げる前に打ち切られてしまいました。
挙手をするなら即断しなくてはなりませんね。
さて、その授業では講師のW先生が「science writer」の話をされていた。science writerとは、科学的な情報や知見を一般向けに発信する人のこと。
福島で起こっている原発の問題でも、原子力ってなに?放射能ってなに?と思っている人が実は多いのではないでしょうか?
正しい情報を専門的な観点から説明することは重要なことであると同時に、scientistの義務でもあると思います。
ここで俺が質問したかったポイントはscience writerについてではなく、scienceやtechnologyの進歩、またそれによって齎された新しい情報や知識に、我々の文化・思想が影響されうるということについて。
学問分野は「文化系」「理科系」と大別されているが、相互に影響し合っていることは誰でも容易に想像がつくと思います。
例えば、進化論が提唱されればそれまでの人類を取り巻く世界観が見直され、それは宗教観のみならず我々が物を捉える哲学的感覚にも作用する。
「科学的知見」と「我々の道徳観」との両立は重要な問題であると思います。
科学は「~ができる」という事実命題を示すが、一方で「~は善いか?」という問いに答えることは出来ない。
すなわち、「事実命題」から「価値命題」を導くことはできません。
これを倫理学では「自然主義的誤謬」と呼びます。
個人的な意見としては、科学は文化や思想に影響を与えるのは当然だと感じるとともに、科学によってもたらされた知見に沿った道徳観を模索すべきだと考えています。
ゆえに、俺はこれまで「進化倫理学」を支持してきたわけです。
進化的事実、利他的行動の理解、認知神経科学の発達、そしてゲーム理論によれば、我々の行動や感情が科学的知見から必ず証明できると考えています。
我々が「美しい」と思う、「かわいい」と思う、「優しい」と思う。それら感情には必ず進化的背景が齎す根拠があり、それは全人類に普遍的であると考えるわけです。
だけど、進化論から倫理原則や道徳原則を導こうとすることはそう簡単にいかず、ヒュームの法則・ムーアの自然主義的誤謬を持ち出して拒絶反応を示す人も多いと思います。
(進化論はドグマであり科学的事実ではないという論争は置いておくとして…)
僕はこの風潮は間違っていると思う。
科学と文化は相互干渉すべきであると思うし、科学は誤謬を犯すことなく我々が採用すべき道徳原則を照らす有益な情報を与える。
例えば、ナイストでもよく行われる「動物実験」。
俺は動物実験には「反対」ではないけれど、倫理的な側面から肯定することは非常に「難しい」と思っています。
理由を書けば長くなりすぎるけれど、簡単に言えば実験の内容を肯定化するための「ヒトと動物(たとえばマウス)の間を隔てるだけの普遍的性質」がないからです。
それは倫理学が訴えているのではなく、認知神経科学や動物行動学などの科学がもたらした答えであると私は思います。
かの有名なルネ・デカルトは「動物機械論」を提唱しました。
当時、この考え方は大きな支持を集め、定説とされましたが、現代においてこの主張を信じる人もいなければ、支持する人もいない。
それは、我々が「動物は機械ではない」という事実を科学から学んだからである。
話を戻すと、W先生が科学と文化・思想が相互不干渉と考えているのか、それともそれらは互いに干渉しあうべきであると考え、そうであれば自然主義的誤謬を犯さずにどのような論理を組み立てていくのか。
「科学」と「文化」の関係について疑義を呈したかった次第です。
今日は少し真面目に(しかも長めに…)書いてしまいました。
たまにはこういう日記もいいかもしれません(頭がすっきりする)。