最近、セカンド、音が取れてない。
と、深刻な顔をして言ってきた美希は、今日も縫製がきちっとした、質のいい黄緑のワンピースを着ていた。
「音が取れてないだけじゃない。ボウイングも雑。何度注意してもダメなの。集中してない」
頭を抱えるようにして机にガン、と肘をついた美希は、カフェラテのコップに浮き出た汗をじっと見てからうう、と唸った。
「私、もう無理。コンミス降りたい」
「それ聞いたらコンミスになりたがってた梓が泣くよお」
コンマス志望だった裕太もね。美希は俯いたまま続け始めた。食べてしまったケーキ皿に視線が写っている。私も、ケーキ食べようかな。どうしよう。でも、最近また太ったしなあ...。
「この間の指揮トレもしこたま怒られた。終わってから指揮者に呼び出された。ふざけているのかって」
「まぁ、弦のことはよくわかんないけどさ。バイオリンって大変そう。管は割と能天気だしさー。あはは。いや、うちのホルンだけか?わかんないけどさ。学生の時と、ちょっと感覚が違うしね」
私は飲み干したレモネードの底のほうの、氷が溶けたのをズズ、と啜った。
何か頼もうかな。美希何か頼む?そう尋ねると、あーカフェラテなくなってきたから抹茶ラテ頼もうかな、とやつれた顔で美希はぼやいた。牛乳を摂取しすぎではないだろうか。飲み物だけでその摂取カロリーはよくない。せめてソイミルクに変更した方がいい。オールソイ。
「最近私たちがピリピリしてんのか、ビオラの花ちゃんが慰めてくれるけど。練習始まるとダメ、ドヴォルザークの方とかもう死んでるんだよう。ほら、昨日の練習の、ヤバかったでしょ。学生の時はガツンと言えたけど、社会人になると距離感もつかめなくて」
「なるほどなるほど」
「それに、バイオリンは各々、昼の仕事とは別途で演奏依頼の仕事が入ってたりするのよ。あぁこの日はホテルで演奏だ、あぁその日はバーだ、あの日は結婚式の演奏だ、って全然練習の都合も合わなくってさ」
私はうん、うんと頷き人形のように終わらない美希の話を延々と聞いていた。
こうして終わらない美希の悩みや愚痴を聞くのも5年目であり、その道としてはかなりの玄人だ。他の誰にも彼女をあつかうことはできないだろう。大して人に自慢できない経験が積まれていく。
レモネードを飲み干して、紅茶を飲み干して、さて店を移るか、もしくは三杯目を頼むかのどちらかで迷っていた時、美希は言った。
「あ!この間アンサンブルで章と弾いたよ」
「へえ。そうなんだ、聞いてなかった!フェイスブックで美希、告知してたっけ。章、元気だった?」
思わぬ名前が飛び出て、私の体はぴしと固まった。平静を装って、普通の返事をしたつもりだったけど、できていたか不安になった。
章は学生時代、男性経験の一切なかった私の、初めての相手だった。
トランペット奏者だけど、ピアニストとしての歴が長い人で、俗にいうイケメンだった。
一度彼のピアノのコンサートで、バンケットの手伝いをしたことがあった。その時に花束を持って、恍惚とした顔で会場に訪れた女子達が何人いたことか、今考えてもゾッとする人数だった。
彼と私は、デートを何回もしていた。だからてっきり、付き合っていると思っていたら、向こうの方はそんなこと、一切思ってなかったようだった。その事実は恋愛経験の乏しすぎる私にとってあまりにショックなことだった。一度、飲み会の時に、彼が男友達に洩らした言葉を聞いたことがあった。
「俺、特別な誰かって、よく分からないんだ。寂しくなって、女の子に触りたくなって、デートしたくなったとして。女の子誘って、恋人っぽいことしようと思えば、してくれるじゃん。じゃあ、わざわざ彼女作る意味って、何なの?」
私は彼のことがとても好きだったので、その発言をはじめ彼のことがトラウマになってしまい、それから二年ほど、音楽の場に行きづらくなった。それでもやっぱり音楽は好きで、こうして出戻ってホルンを吹いている。
彼はそんな感じで、私にとって幾分苦い思い出だった。そして、私と章がそんな関係であったことを、おそらく誰も知らない。
「元気、元気。あの人いると集客楽なの、正直!ふふふ」
「あはは、だろうね」
「それで、実はね。その時告白されて。付き合うことになったんだ、章と」
楽しそうに笑う美希の声が遠くに聞こえた。慌てて口元に笑顔を浮かべて、「そうなの!おめでとう」と言ってから、またグラスの底の、氷の溶けたのをズズズ、と啜った。口が渇いてたまらなかった。
「あーあー、宝くじあたったら私、ストラディバリウスっていうバイオリンがほしいな。何億当たっても買えないかもしれないけど!柚は、何がほしい?」
店の外に出て、駅まで歩いている途中、彼女はそんなことを言った。
「うーん、そうだね、私も新しい楽器が欲しいかなぁ。でも、それより欲しいものが、いっぱいあるな。エステとか、行きたい」
「なにそれー!柚はそんなんしなくていいよう!あ、駅ついちゃった!」
じゃあまた指揮トレで会おうね、と手を振る美希は、体と同じくらいのサイズのバイオリンケースを抱えていて、とても華奢に見えた。素敵な洋服に、サラサラの髪の毛に、可愛い顔立ちの美希。あんな小さな体で、いつも楽器を抱えて走り回って。
美希が誰よりも頑張り屋なことは、私はよく知っていた。きっと、章も彼女のそういうところに惹かれたに違いなかった。
あれから数年が経っていて、私も、美希も、たくさんのことを経験して、たくさんのことが変わって、きっとその中で変わらないものもあって、私たちは音楽を続けている。
きっと、彼も、彼の中で何かが変わって、変わらないものもあって、そうして美希を、好きになって、大切にしたい誰かを知って、
おつきあいをはじめたのだ。
その日の帰り道、私はいつものようにミスタードーナツに寄り、家族の好きなポンデリングと、私の好きなオールドファッションを買って、いつものように譜面を見ながら地下鉄に乗り、いつものように家に帰って、いつものように眠りについた。
その日の帰り道はとても、
とてもとてもとてもとても、
美希を、羨ましく思った。
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とにかく音楽家はやめといた方がいいね
(明日はDJを書く)(エモ系)(1番やばそう)