真白い大地に、一頭の牡鹿が立つ。雄々しい角をかかげた首が、ゆるりともたげられる。その黒く濡れた瞳は、まっすぐに、ただ一点だけを見つめていた。


 そこには、彼が踏みしめているそれと同じように、真白い丘がある。丘の頂では、青々とした葉を茂らせた樹が、さらに、空高くへと枝を広げている。


 あれが、あの場所こそが、彼の――彼と“私”の目指す場所だと、そう確信を抱くようになったのは、はたして、いつからであったのか。もう、今となってはわからない。ただ、私はいつでも牡鹿のかたわらにいて、牡鹿もまた、いつも私のかたわらにあった。


 遠く、汽笛の音が聞こえた。目をやれば、私たちが歩いてきた方角から、汽車が走ってくる。汽車は、またたく間に私たちを追い越していった。風に乗って、乗客たちのにぎやかな声が届く。


 ――あれに乗っていたのなら、どれだけ、この道は楽だったろう。


 みるみるうちに、小さくなってゆく汽車を見送り、私は思った。数日前、私と彼とが後にした町を振り返る。旅の足を休めるべくして、しばしの間、私たちが留まったそこは、青で彩られた町だった。


 先刻、走り去った汽車が、あの町から出ていることを、私は知っていた。彼とふたり、この広大な地へと旅立つ、その前から。


 だのに、どうして、私はあの汽車に乗らなかったのか。それは、ひとえに、私が彼とともに在りたいと願ったからにほかならない。なぜなら、牡鹿である彼は、汽車になど乗ることができない。なぜなら、自然を愛する彼は、汽車を好まない。そして何よりも、彼は自らの足で歩きたいと願っていた――

 私は視線を前へと戻そうとして、ふと、奇妙なものを見た。乾いた砂地で、青い金魚が跳ねている。砂にまみれ、もがく金魚が向かわんとする先には、いくつかの水たまりがあった。しかし、水たまりとの距離はなかなか縮まらない。まるで、懸命に逃げ水を追っているかのようだった。


 一方で、金魚が目指す水たまりにもまた、奇妙なものが映っている。それは、箱に入れられた子猫であった。置き去りにでもされたかのようなその姿は、けれど、大切そうに何かを抱きかかえている。


 そのとき。ふいに、私の頭にひらめくものがあった。ああと、思う。これらは、この金魚と子猫は、ほかでもない私自身なのだ――


 あの逃げ水は、心だ。“童心”という、幼き日の私が、もっとも失いたくないと願った宝だ。そして、箱の中の子猫が、今も大事に抱えているもの。それこそが、金魚の求めてやまない水なのだ。


 私は、そっと金魚をすくいあげ、水たまりへと放してやる。たちまち、金魚は水の中をすいと泳ぎ、いずこかへと消えた。それとともに、子猫の姿もまた、水たまりには映らなくなる。水たまりに映る自分と、かたわらにたたずむ牡鹿の姿を確認して、私はどこか、晴れ晴れとした気持ちになった。


 ――やはり、よかったのだ。私は、汽車に乗らずにいて。


 そもそもの話、あの汽車では丘まで行くことなどできはしない。町の人々が目指す、赤い華の塔。そのさらに先に、私たちの目指す丘はあるのだから。


「さあ、いこう」


 向かう地へは未だ遠く、けれど、私たちの道のりを阻むものは何もない。私は牡鹿の首に手を置き、再び、並んで歩きだした。
 

 

 

※ 箱庭ねんどセラピー(JCAカウンセリング・傾聴スクール)での記録を兼ねた掌編小説です。