熟考する毎日 | 大村あつしオフィシャルブログ「ボクは不死鳥」Powered by Ameba

熟考する毎日

人間は誰もがみな、固有の思想、信念、価値観を持って生きている。

そして、それを否定された時の対処は2つしかない。

1つは相手に対して怒る事。

もう1つは、「あー。この人にはわかってもらえないな」とやり過ごすこと。

そして、こうした信条は「土台の上に構築されて」いる。

土台とは、親のしつけ、学校教育、その後、自分の経験で気付いたことだ。

ちなみに、「価値観」に関して面白い話がある。

以前、日本サッカー代表チームが国際試合に負けた時に、当時のトルシエ監督が怒りのあまり

「そもそも、自動車など来ていないのに、のんびりと赤信号で待っているような国民にサッカーができるわけがない」

と発言してしまった。

当然、物議を醸したが、これは「価値観=国民性」の違いで、トルシエ監督の最大の無配慮は、この発言そのものではなく、この発言を日本国民に対してしてしまったことであろう。

実際、海外に行けば、赤信号など誰も守らない事は、僕たちも経験していることだ。

要するに、「自己責任」であり、国や法律にわが身を守ってもらおうという意識は、海外の人は極めて低い。

だから、逆に、僕たちがフランスに行って

「自動車が来ていないからと言って、赤信号を渡ってしまうようなせっかちな国民に『わびさび』が理解できるはずがない」

と言ったら、当然、袋叩きにあうだろう。

今、僕は、この「自分の価値観」を構築している「土台」が揺らいでいる。

要するに、信じていたものが信じられなくなり、逆に、「そんなバカな」と思っていたことが、「もしかしたらそれは真理かも」と思い悩んだり。

たとえば、僕は昔は、「願えばかなう」派だった。
これは、明らかに、20代の頃に読んだ自己啓発書の影響だ。

しかし、「願えばかなう」と書いてある本に出てくる人は、歴史上の偉人ばかり。
ある時、「じゃあ、願ってもかなわなかった人はどう説明するの?」と思うようになった。
30代半ば頃のことだ。

そしてたどり着いた結論が、「信念があればかなう。しかし、執着していてもかなわない」だった。
だから、それを訴えたくて、僕は『エブリ リトル シング』を書いた。

蛇足だが、吉野公佳さんと先日お会いした時に、

「大ファンなんです。
舞台も観に行きました」

と言っていたので、それなら、舞台開催中の頃の彼女のブログを見れば、何か書いてあるかな、と思って読んだら、確かにブログで触れていてくれた(感謝!)。

吉野公佳さんのブログ  ☆舞台 「エブリ リトル シング ’09」
→ http://ameblo.jp/yoshino-kimika/entry-10321754798.html

ブログを読むと、社交辞令ではなく、本当に『エブリ リトル シング』が好きなんだな~、ということがわかって、とても嬉しかった。

話が横道にそれたが、最近、人間の運命って決まっているんだろうか、ということをよく考える。

「願えばかなう」どころか、願ってもいない試練に突然、襲われるのが人生である。

よく、「原因と結果の法則」といい、すべての結果には原因があり、突き詰めれば、「すべては必然」という人もいる。

サインをせがまれると、必ずこの「すべては必然」を添える自己啓発作家もいるらしい。

ここがわからない。

僕の「土台」としては、

「運命があらかじめ定まっているわけがない。
定まっているのは、その人が絶対に超えられない限界であり、その限界にどれだけ近付けるかが人生という旅である」

だったのだが、最近、

「運命は定まっているのかもな~。だけど、その定まったストーリーの中では、誰もが自由であり、誰もが主人公である」

と考えた方がしっくりくるような気がし始めている。

要するに、富士山の頂上に登る、という運命は定まっていても、それを静岡県から登ろうが、山梨県から登ろうが、その部分は誰もが裁量を与えられている。

それが運命なのだろうか?

こんなことを考えている。

すぐに結論は出そうにないが、今夜も悶々とそんなことを考えるんだろうな~、と思う今日この頃。



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→ 『無限ループ』


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