死が概念で亡くなった日
ノアが決意表明、三沢さんの意志継ぎ「いかなる時も全力で邁進」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090615-00000003-spnavi-fight
三沢さん。
ボクとたった3つ違い。
こういう人の死のニュースを読んだり、身近な人の訃報に接すると、
「あー、人間って死んじゃうんだ。もちろんボクも」
と当たり前の事を思うようになった。
「死」というのは、ずっとボクにとっては「概念」に過ぎなかった。
要するに、「地球が50億年後に滅びる」というのと同じく、あまりに先の事で、それを実感する事ができなかった。
実感できないのだから、真剣に考えられるはずもない。
そんなボクが、「死は誰にでも平等に訪れる」というのを思い知らされたのは、アイルトン・セナが死んだ時だ。
ボクは27才だった。
それまで、10年間、F1で死者は出ていなかった。
2日前の予選で、ローランド・ラッツェンバーガーが逝き、不幸な事に10年ぶりの死者が出てしまったが、内心、「これで、向こう10年はF1で死者は出ない」と思った。
仮に、死者が出るにしても、それがアイルトン・セナであるはずがないと、セナの死など想像もしなかった。
ボクにとっては単なる「概念」だったのだ。
でも、そのセナが死んだ。
しかも、見ているテレビ画面の中で。
ボクは、3日間、喪に服し(というか、ショックで何もできなかった)、その時に悟った。
「ボクもいつか死ぬんだ・・・」
「概念」が「実感」に変わった瞬間だった。
人間は、交通事故などのニュースを見ても、「自分だけは大丈夫」と思う生き物だ。
一方で、宝くじに当たった人の話を聞いても、「自分だけは当たるはずがない」と思う。
すなわち、自分にだけは悲劇は襲わない、と楽観的な気持ちと、自分にだけは幸運は訪れない、という悲観的な気持ちを共存させて、その狭い幅の中で生きているが、ボクは常日頃から
「明日死ぬのは自分かもしれない。
でも、今度宝くじに当たるのは自分かもしれない」
と、エキサイティングな気持ちを忘れないようにしている。
ノアの「いかなる時も全力で邁進」という決意表明に敬意を表しつつ、三沢さんのご冥福をお祈りしたい。
ドラゴンボールのベジータの声優、堀川りょうさんの素晴らしい朗読です
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090615-00000003-spnavi-fight
三沢さん。
ボクとたった3つ違い。
こういう人の死のニュースを読んだり、身近な人の訃報に接すると、
「あー、人間って死んじゃうんだ。もちろんボクも」
と当たり前の事を思うようになった。
「死」というのは、ずっとボクにとっては「概念」に過ぎなかった。
要するに、「地球が50億年後に滅びる」というのと同じく、あまりに先の事で、それを実感する事ができなかった。
実感できないのだから、真剣に考えられるはずもない。
そんなボクが、「死は誰にでも平等に訪れる」というのを思い知らされたのは、アイルトン・セナが死んだ時だ。
ボクは27才だった。
それまで、10年間、F1で死者は出ていなかった。
2日前の予選で、ローランド・ラッツェンバーガーが逝き、不幸な事に10年ぶりの死者が出てしまったが、内心、「これで、向こう10年はF1で死者は出ない」と思った。
仮に、死者が出るにしても、それがアイルトン・セナであるはずがないと、セナの死など想像もしなかった。
ボクにとっては単なる「概念」だったのだ。
でも、そのセナが死んだ。
しかも、見ているテレビ画面の中で。
ボクは、3日間、喪に服し(というか、ショックで何もできなかった)、その時に悟った。
「ボクもいつか死ぬんだ・・・」
「概念」が「実感」に変わった瞬間だった。
人間は、交通事故などのニュースを見ても、「自分だけは大丈夫」と思う生き物だ。
一方で、宝くじに当たった人の話を聞いても、「自分だけは当たるはずがない」と思う。
すなわち、自分にだけは悲劇は襲わない、と楽観的な気持ちと、自分にだけは幸運は訪れない、という悲観的な気持ちを共存させて、その狭い幅の中で生きているが、ボクは常日頃から
「明日死ぬのは自分かもしれない。
でも、今度宝くじに当たるのは自分かもしれない」
と、エキサイティングな気持ちを忘れないようにしている。
ノアの「いかなる時も全力で邁進」という決意表明に敬意を表しつつ、三沢さんのご冥福をお祈りしたい。
ドラゴンボールのベジータの声優、堀川りょうさんの素晴らしい朗読です