お久しぶりで御座います、節穴豆腐で御座いますよー。

 

今回のお話は、創作物と現実についてのお話。

 

創作物の娯楽作品っちゅーもんは、基本的に現実ではあってはならない事、無いほうが絶対良い事を、面白がっていいものだと思うのですよ。

 

某国民的刑事ドラマなんかも、毎週大体殺人事件が起こって、その事件の犯人を突き止めて捕まえて、を延々繰り返してウン十年な訳で。

 

そんな国民的ドラマの新シーズンが始まりました!って時に、『U-Kyoさん、暇ですねぇ。でも、我々みたいな仕事の人間が暇ってことは、人も死んでないし、世の中が平和って事で、素晴らしいですよね。さ、お茶にしましょうか。』という話を何週間も続けたんじゃ、大ブーイングが起きるでしょうし、殺人事件は!?という話になる訳で。

 

それって、視聴者は殺人事件を心待ちにしてて、殺人事件を楽しんでる訳ですよね。でも、創作物だからいいじゃない、と私は思います。

 

他にも、テロリストが高層ビルを占拠して、『要求を飲まなければ、中にいる人質ごとビルを爆破するぞ!』なんて声明を出したりして。そいで捕まっている人質の中にたまたま休暇中の警官だか特殊部隊の隊員だかがいて、その人が単身テロリスト部隊に戦いを挑む!なんてアクション映画、山程ありますけど、それを観客はかっけー!なんて言って観に行って。

 

でも、そんな事件が実際に起きたら、嫌ですよね?無いほうが絶対良いですよね?

 

アクションもの、バトルものなんかに限らず、恋愛ものだって、主人公格二人が出会って、好き同士になって、付き合って、あろうことか付き合った瞬間に大病発覚、余命3週間のコンボを食らったりしがちじゃないですか。それを、観客は残された僅かな時間の中を懸命にひたむきに、っていうのが最高なのよね!いい話!なんて喜んで観る訳じゃないですか。

 

それ、現実に同じシチュエーションのカップルがいて、そこにそんな事言ったらド外道もいいとこな訳で。

 

その様に、創作物の娯楽作品というものは、基本的に現実ではあってはならない事、無いほうが絶対良い事を面白がって良いものであり、現実ではあってはならない事を描いた創作物を世の中から取り除いたら、残る創作物はペンペン草2~3本分が良いところではないかと思うのですよ。

 

大事なのは、現実と創作物の区別を付けるという事であり、創作物に出てくる武器、兵器、殺人術等は格好良くて素敵な物でも、現実の世界で現実に人間を傷付けたり殺したりする武器、兵器は絶対に使われないほうが良いし、一切使われない世の中になるのが大事、というのは容易く両立するものかと思います。

 

バトルものや戦争ものの創作物の中で、不穏な空気が流れ緊張感が高まったら、いけー!ぶちかませ!おっぱじめろ!で良いかと思いますが、現実で変な緊張感が高まった場面では、絶対に手は出しちゃいけないし、お互い一歩下がって、譲り合って、関わっている人間全員が一番損が少ない妥協点を見つけて、手を打つべきだと強く思いますですよ。

 

ホラー映画なんかで人が無残に死ぬのも、それがピンと来る来ない、美味しく頂ける頂けないの好みの差はあるにせよ、基本的に人を喜ばせる為に作られ、世に出回っている訳で。ホラー映画のモンスター、殺人鬼、怨霊なんて、産まれてきた意味や存在する理由が人を幸せにする為な訳ですから、某夢の国プリンセスの方々とも当然の如く同属なのです。

 

そして、暴力性のあるコンテンツを好む人間の中には、暴力性や残虐性が潜んでる説なんてものもありますが、それは確かに一理あると思います。

 

そういった性格的傾向がいくらかあるから、そういったものを好む面はあるとは思いますが、それが作り話を観てキャッキャと喜んでいるだけで満足して、現実に人を傷付けたりトラブルを起こしたり等の問題行動に至っていないのであれば、健全と呼べる範囲内だと個人的に感じますし、その理屈でいうと悲恋好きとか。絶望的な状況に陥った中もがく男女が報われない様を好む相当お上品な感じの性格という事になってしまいます。

 

皆様、どうか容量用法、創作と現実の境目を守った上で、お互い素晴らしい娯楽作品ライフを送りましょう。

節穴豆腐で御座います。好みの話、後編で御座います。

 

前編で触れたお話の、具体的な例として、ネットなどで、アダルト動画を法律で規制しよう、という方々がいて喧嘩になっているのですが、そういった方々がそういう事をする根本的な理由は、結局それが嫌い、受け付けない、理解できないという事でしかない様に思えます。

 

ただ、法律でアダルト動画を規制したいんです!と言って、理由が自分達が嫌い、受け付けない、理解できないからです!と言っても、それは勿論通らない訳で。そこで、それを通す為に大義名分、まともに見える理由を作り出す必要があり、そこで作り出したのが、アダルト動画で痴漢の様な、現実では犯罪である行為を好んで観る人は、いずれ本当に痴漢をする様になるから、といったものでした。

 

そこで本当にアダルト動画の規制が出来てしまうとどんな事になるかというと、そもそも、元々の本当の理由が嫌い、受け付けない、理解できないという好みの話で、それに適当な理由をくっ付けたら法律で禁止が出来た、という形になりますね。

 

世の中には、どんなものに対してもそれを好きな人も嫌いな人も、良いと思う人も悪いと思う人も様々な意見の人が必ず一定数いる訳で、現代はネット社会ですから、ネットで簡単に仲間集めが出来る時代なのです。そうしたら、ネットで「〇〇が嫌いな人集まれー」と同じ好みの人を集めて、そこに適当な理由をくっ付けて、大勢で大声で騒いだら、何かを法律で禁止できました、となったら、その気になればなんでもかんでも法律で禁止できてしまう世の中になり、それはとても面倒だしとても怖い社会じゃないか、と私は思うのです。

 

例えば、痴漢もの動画を観ていると本当に痴漢になるから、という理屈でアダルト動画が規制できてしまったら、その理由はそのままに、ターゲットを差し替えていくと、人気漫画のワンピースだって禁止できる事になるんですよ。

 

だって、ワンピースの主人公達は格好良くて、海賊で、海賊って反社会勢力、犯罪者な訳ですから。ワンピースで海賊を格好良いなどと言っていると、海賊みたいな反社会勢力に憧れて、そういった組織に本当に入ってしまう人が出てくるから、規制すべき。アダルト動画の時は同じ理屈で法律で禁止できた前例があるのですから、当然今回も通りますよね?となる訳です。

 

好き、嫌いの好みの話で何かが禁止になってしまうと、そこを皮切りに今現在全く問題がない物が、突然法律で禁止する、しないの話になる可能性を持つ様になりますし、世の中にはどんな物にも嫌いな人が一定数いる以上、何が槍玉にあがるか判ったものではありません。そんなの、少なくとも私は嫌です。

 

そして、そもそもが、痴漢もの動画を観ていると本当に痴漢になるとか、ワンピースで海賊格好いいなんて言っていると、海賊みたいな反社会勢力になってしまうとか、そういったものって創作物、作り話な訳です。創作物って、現実ではあってはならない事を、娯楽として楽しんで良い物ではないでしょうか。

 

例えば、国民的ドラマの相棒という番組がありますが、相棒は毎週殺人事件が起きて、その真犯人を突き止めて、逮捕するまでをワンセットとして、毎週進行する訳で。例えば、相棒の新シリーズが始まって、「右京さん、暇ですねぇ。でも、私達みたいな殺人課の刑事みていな者が暇っていう事は、世の中が平和って事でいいですよね。お茶にしましょうか。」だけで4週間も5週間も過ぎていったら、視聴者は「殺人事件は!?」と大ブーイングを浴びせると思うのですが、それって、皆殺人事件を心待ちにして、殺人事件を楽しんでいる訳ですよね。でも、創作物で作り話だから、それは問題にならない訳です。

 

世の中に山程あるタイプの映画で、テロリストが高層ビルを占拠して、要求が通らなかったら中にいる人質ごとビルを爆破するぞ!と言って、人質の中にたまたま休暇中の特殊部隊の隊員が混じっていて、その人が単身テロリストに戦いを挑む。そんな映画はごまんとありますし、それを皆かっけー!と言って観に行く訳ですが、現実にそんな事件があったら、格好いいどころか怖いし嫌だし、あって欲しくないじゃないですか。

 

暴力的とか残虐とかでなくても、恋愛映画などでも、男女が出会って惹かれ合って付き合って、付き合った瞬間に大きな病気が見つかり余命三か月を宣告される、なんていう映画を、残り少ない僅かな時間の中を懸命に愛し合う、それが素敵なのよね!感動するわ!と皆さん良い話として鑑賞する訳ですが、現実にそういうカップルがもしいて、そこに同じ事を言ったら、暴言も暴言になってしまいます。

 

ホラー映画だって、人がバンバン死んだり怖かったりグロかったりしますが、それはそういうのを好きな人達がいて、そういう人達に楽しんでね、という気持ちで作って差し出しているものである訳です。

 

世の中に合法的に出回っているものは、どんなに変なものであれ、それを好きという人がいて、そういう人に幸せになってもらう為にあるものであって、人を傷つけたり、追い詰めたりする為に作ったものは、そもそも世に出る前にほぼほぼ弾かれるものだと思います。

そして、創作物というものはそもそもがこういったものなので、現実ではあってはならない事を創作物でも描いてはいけないというなら、今現在既に世に出ているドラマも、映画も、漫画も、ほぼほぼ全てがアウトじゃないか、と思うのです。

 

では、そういったものを観てそういった事を本当にやってしまう人にはどうしたら良いか、と言うと、例えば小さなお子さんがお友達をぶって泣かせてしまった時に、大人が叱って理由を訊くと、

 

「どうしてぶったの?」

 

『言う事きかなかったから』

 

「言う事きかなかったからってぶったらダメでしょ」

 

『でもさ、アンパンマンは最初口で注意して、言う事きかなかったらアンパンチで解決するもん』

 

となったら、

 

「悪い見本を見せたアンパンマンが悪いし、真似しただけの貴方は悪くない」

 

ではなく、

 

「お話の世界と、現実の世界ではやっていい事と悪い事が違ってね、本当の世界では、どんな理由があっても、お友達をぶっちゃいけないんだよ、いいね?」

 

と、創作物と現実の区別をつけなさい、という教育をする、という方向に行くのが普通であって、創作物を禁止する方向にはいかないと思うのです。

 

そういった事を全てひっくるめて、人間、好き嫌いは必ず出てくるものですし、自分の意志の力で好き嫌いが自由にならない部分もある訳です。

 

例えば、何かを好きになろうとして一生懸命取り組んでも、好きになるぞ!と意気込めば必ず好きになる訳でもなく、なーんかピンとこないなぁ、とか苦手だな、これ・・・といった事もありますし、逆に嫌いにならなきゃ!辞めなきゃ!と強く思っても、でも大好きなんだよなぁ・・・といったものもある訳です。

 

だから、好き嫌いの好みというのは、何が好きでも、何が嫌いでも自由であるべきだと私は思います。

 

そして、世の中には何に対してもそれを好きな人も、嫌いな人も、良いと思う人も悪いと思う人も必ずいる訳で、誰かの好きな物は誰かの嫌いな物な訳です。

 

例えば、甘い物、というもの自体には善悪はありませんが、それを受け取る人が甘い物が好きであれば、甘いから美味しくて、甘いから最高となる訳で、甘い物が嫌いな人が受け取れば、甘いから不味い、甘いから最悪、となる訳です。

 

同じ物事の同じ面を見て、ある人はこれがこうであるから最高だ、と言い、またある人はそれがそうであるから最悪だ、と思う。好みというのはそういうものですし、そこで自分が何かを嫌い、受け付けない、理解できないと思ったからといって、それを攻撃したり世の中から追い出そうとすると、誰かの好きな物、大事な物を殴り合って追い出し合うという何一つ意味のない事になってしまう訳です。

 

だったら、自分が嫌いで受け付けないのなら、近付かない、触らない。それで自分と嫌いなものが関わらず、交わらず幸せに過ごせるならそれで良いじゃないか、と思いますし、更に、自分が嫌いで受け付けないそれを、好きな人達がいて、好きな人達が好き同士で楽しんでいる、という事に対しては尊重して認めてあげる、という事が大事なのではないでしょうか。

 

ちょくちょく見掛ける事例として、これは例えですが甘い物が好きな人が甘い物を食べて美味しい!最高!と発言しているところに、どこからともなく横から突っ込んできた人が「甘い物が嫌いな人もいるんです、配慮して下さい!」と食って掛かる様な光景、なんとなくご想像頂けるかと思います。

 

私は、物事にどんな感想、どんな印象を持つのも自由、それを他人にぶつけたり、押し付けたりしなければ私はこう思った、私はこう感じた、と発言するのも自由だと思っていますが、嫌いな人もいるんです、配慮して下さい、というのは、貴方が甘い物を好きで最高だと思っても、それを表明する自由を認めません、という事ですよね。

 

例えば、甘い物が嫌いな人に「甘い物が嫌いとかさー・・・あり得ないよね、異常だわ」と言ったり、「本当においしい甘い物を食べれば、皆甘い物が好きになるし、甘い物が嫌いな人って、本当においしい物を食べた事が無いからなんだよね。だから食べてよ」などと、嫌いだと言ってるのに食べさせようとしてくるとか、甘い物を嫌いで受け付けないと感じた、という人の感性を理由に貶したり、馬鹿にしたり攻撃をするといった事に対して、反撃として「嫌いな人もいるんです、配慮して下さい」は正解ですし、問題が無いと思います。

 

ただ、甘い物が好きな人が美味しいと感じた、自分にとって最高だと思った、というのはそれをそう感じるのも発言するのも自由な訳で、それを侵害するのは間違っていると感じます。

 

こういった方は、「貴方は好きで美味しいと思ったかもしれないけど、世の中には同じものに対して貴方とは違って不味くて最悪だと感じる人もいるんです、そういう他人の事も考えて下さい」というニュアンスで仰っているのかと思いますが、全くその通りで、そういって難癖をつける貴方自身が、自分と違って甘い物を美味しい、最高と感じる人の事を全く考えていませんよね?と思うのです。

 

自分が甘い物が嫌いで受け付けない。自分が嫌いで受け付けない物を褒めたり持ち上げるのが気に食わない、という嫌いな側の人間の理屈しか頭にないから、好きで最高と思う人に、そう思ってもそれを発言するな、といった自由の侵害が出来る訳で、そこは正解としては、自分は嫌いで受け付けないけれど、あの人にとって美味しくて最高で、あの人が美味しく楽しんでることに関しては、尊重して快く認めてあげる、という事が大事ではないか、と思います。

 

長くなりましたが、好みに関する話、前後編。思いの丈を記させて頂きました。

 

お読み頂き、有難う御座います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近、何の因果か人前でお喋りをさせて頂く機会が御座いまして、結構な頻度でお話をさせて頂いております。

 

そんなお喋りの中で、文字起こしをしておいたら何かと便利かも、といったお話を、ブログにて書き留めようと思い立ちました。

 

世の中、制限事項や禁止事項といったものは、個人的には少ない方が良いと思う訳で。

 

そして、自由の範囲というものは、広ければ広い方が良いと思うのです。

 

基本的にはそう思うのですが、何でもかんでもフリーダムに、という訳にもいかず、これだけは禁止しないとマズい事になる、といった事柄や、これを許可しちゃうと社会というものが成り立たなくなる、といった事柄に関しては、世の中の大きなルール、法律で禁止となっている訳で。

 

そういった社会の大きなルールで禁止、となっていないものに関しては、好みの問題になってくると思うのですが、この好みというものがどういうものかと言うと…

 

例えば、食べ物の好みで言えば、甘いものが好き、辛いものが好き、しょっぱいものが嫌い、苦いものが嫌い、と皆それぞれ様々な好みがある訳で。

 

好みというものは、どんな味のものが好きでも、またどんな味のものが嫌いでも、何が好きでもいいし、何が嫌いでもいいし、自由であるべきだと思います。

 

また、何かが好き、何かが嫌いというのは、他の何かが好き、嫌いという事と比べて、上とか下とか、正しいとか間違っているとか、そういった差異はなく、皆横並びで皆平等なものだと思います。甘い物が好きな事が、辛い物が好きな事より上とか下とか、正しいとか間違っているとかは無いと思うのです。

 

そして、世の中には、どんな物に対しても、それを好きな人も、嫌いな人も、いいと思う人も悪いと思う人も、様々な意見を持つ人がいる。

 

それが好みというものの基本的な考えだと思います。

 

そして、世の中には、何かが嫌い、受け付けない、理解できないという理由で、それを攻撃して、世の中から追い出そうとする人達がいるのですが、個人的には、それは結構マズい事をしてるのではないかなー、と思うのです。

 

何故かと言うと、世の中の人間関係というものは、例外もあるにせよ基本的に大体は「良い事をしたら良い事が返ってきて、悪い事をしたら悪い事が返ってくる。自分が周りにした事が、周りから自分に返ってくるものである」といった性質のものであり、先述の通り世の中には何に対してもそれを好きという人も、嫌いという人も、良いと思う人も嫌いと思う人もいる以上、自分が嫌いだと思い攻撃をしたものを、好きな人も必ずいる訳です。

 

そうなると、攻撃をした人自身の好きな物、大事な物、無いと困る物といった物を、嫌い、受け付けない、理解できないという人も必ずいる訳で、行き着く先は誰かの好きな物、大事な物をお互いに殴り合って世の中から追い出しあうという、何一つ意味のない事になってしまう。だから、そういった事をするべきではない、と私は考えます。

 

そして、何かを嫌い、受け付けない、理解できないという理由で攻撃をしたり、世の中から追い出したりする人が、どういう事をしているかというと、例えば甘い物が嫌いな人がいたとして、その人がコンビニやスーパーに行ったら、甘い物は沢山置いてある訳です。

 

そこでそういう人がどういう事をしているのかというと、自分の嫌いな甘い物が棚に陳列されているのを見て、「これ等の甘い物を撤去する様に店に抗議しよう」とか「販売を出来ないようにしてやろう」といった様な事をしているに等しい訳で。

 

自分が甘い物を嫌いだから、購入を控えよう、とか食べない様にしよう、というのは個人の自由で勝手ですが、自分が嫌いだからという事に起因して、お店の売り場から追い出そうとか、販売を差し止めようと活動するのは、全くのお門違いだと私は思います。

 

そしてもう一つ例を挙げると、煙草を吸う人。煙草って、吸える場所もどんどん限られてきていますし、煙草を嫌いな人の方が多数派になり、少し肩身の狭い思いをされている喫煙者の方も多いのではないかと思います。

 

喫煙者の方々は、喫煙室や喫煙スペース等、専門の場所(この部屋、この場所にいる人は、煙草の煙を吸う事を了承している前提の場所)で、非喫煙者や嫌煙家の人達に迷惑を掛けないよう、好きな人達同士で集まって楽しんでいる訳ですよね。

 

そして、煙草が嫌い、受け付けない、理解できないという理由で禁止したい人は、煙草というものが人体に如何に悪影響か、という話を並べた後で、そういった煙草の煙というもので、自分達非喫煙者、嫌煙家の健康までもが危険に晒され、害される事がたまったものではないから禁止して欲しい、と主張する訳で。

 

しかし、現実にはそんなシンプルな話ではないものの、建前上は皆がルールを守って暮らしていれば、煙草の煙は喫煙所、喫煙スペース等専門の場所にしかほぼ存在しない訳で、そういった状態で非喫煙者、嫌煙家の健康が極端に危険に晒されるというと、結局そういった専門のスペースに煙草を吸わない人がわざわざ足を運ばない限り、日常的、且つ極端に健康を害される事はあまりあり得ないと思うのです。

 

嫌いで受け付けない物が存在する限られた場所にわざわざ出向き、そこで嫌いだ嫌いだと騒いで攻撃したり世の中からの排除を試みる位なら、その嫌いなものが存在する場所に自分から近付かなければほぼ解決では?と思わざるを得ない気がするのです。

 

嫌いで受け付けないのなら、自分からそれが存在する場所に近づかない、触らない。そして、普通に暮らしていてぶつかりそうになるシチュエーションがあったら避けて通る。それで自分の嫌いで受け付けないものと自分の人生が交わらず、関わらず生きていけるのならそれでいいじゃないか、と思いますし、そこで攻撃をしたり世の中から追い出そうなどとすると、結局は互いに好きな物、大事な物を殴り合い追い出し合うという、何一つ意味のない事になる訳です。

 

だったら、自分が嫌いだと思ったら近付かない、触らない。そして、自分が嫌いなそれを世の中には好きな人達がいて、好きな人達が好きな人達同士で集まって楽しんでいる事に対しては、それを尊重して、存在を認めてあげる。それが大事になってくるのではないでしょうか。

 

・・・とまあ、ここまでがパート1、前編です。これだけでもかなりのボリュームになってしまいましたが、更に後編が御座いますので、もし宜しければお付き合いくださいませ。

 

凄まじい長文を読んで頂き、有難う御座います。

 

では、また次回。

 

 

 

 

 

 

 

どーもどーも、節穴豆腐で御座います。

 

最近、イベントに行く機会がありまして、その時思った事などをつらつらと。

 

なんというか、旅行から帰ってきて「やっぱり我が家が一番だー!」などと言ってしまうのはあるあるですが、ならば旅行に行かなければいいかと言われると、また行きたくなるもので。

 

多分、私は仕事に行き、帰ってきてを繰り返して、何日か働いた後に特別な予定が何もない普通の休日が来て、という所謂普通の日々というものが一番好きで、楽しいんだと思います。

 

非日常とか、特別感のある日というのは、全く無ければ寂しいけれど、ほんの少しだけあれば暫くお腹一杯で、それが私にとって音楽やスポーツ等、趣味のイベントになるんだろうなあと。

 

そして、今現在、色んな趣味がネット経由で楽しめる世の中でして、スポーツ観戦その他諸々も、現地にしょっちゅうは行けないけれど、仕事のある普段の日はネットで楽しみ、たまーに実物を楽しみにイベントへ行く、というのが私のパターンなのですが、ここで中々難しい問題が。

 

私は、趣味に対して求めている事は「趣味を通じて幸福感を得る」というただ一点のみです。のめり込んで、ハードに自分を追い込んでキツい行程が楽しいならそうすればいいし、ゆるーく手軽に楽しむのが一番楽しめるならそれでいい。問題は、自分という人間が趣味に対して一番幸福感を引き出す事が出来るのはどの角度からのアプローチなのか、という事で。

 

遠くから眺めて半ば別世界の出来事かのように神格化したほうが楽しいのであれば、現実の出来事として認識しなければいいと思っているので、今まで画面の中でしか見た事が無いものを、まさに目の前の現実として目の当たりにした時に、万が一好きな気持ちが減ってしまうのが怖い。でも普通に実物を見たい。そんな葛藤があるのです。

 

唯一大事な事は、幸福感を多く得ること。その為にどうするか。むずかしーなー、と。

 

こんな歌もありました。

 

このままじゃ このままです でもそのままが 一番かもよ

 

ほんまそれ。

お久しぶりで御座います、節穴豆腐で御座います。

 

個人的に思いますのが、嘘というのはどうもコスパが悪い。一つの真実を隠すのに、複数の穴を埋めなきゃいけない上に、ランニングコストまで掛かるのが、どうにもしんどいなぁ、と。今回は、嘘に関するお話を書いていこうかと思います。

 

頑張れば、絶対出来る。必ず成功する。そう言われて頑張った経験がある人は沢山いらっしゃると思いますが、頑張ってもダメな時はダメなもので。

 

何かを成そうとして行動する時、それは思い描いた未来を実現する可能性を高める作業であって、未来に保証や確約はありません。

 

自分の努力や行動に、周りの環境、タイミングや運等、色々な要素が絡んで結果というものは出力されますし、自分自身にはコントロールも予知も出来ない何かが強大な力を振るって、自分の意志とは無関係に結果を決めてしまう場合も多々あります。

 

何かを成し遂げようとして努力を重ねた結果、それが失敗に終わった時、自分は成功する可能性を高めていただけで、未来に保証などないし、いつ何が起こるか全く予測不能だという意識があれば、意思が折れる事はありません。

 

努力する意欲をその場限りで増大させる、という点に関しては効果はあるとは思いますが、絶対出来る、絶対叶うと信じさせれば、そうならなかった時のダメージは計り知れないものとなるのです。

 

例えば、成功という商品を、努力という代金で購入しようとしている、と例えた場合、現実的に正しいのは「代金を頂かなければ商品は手に入りませんが、代金を支払っても確実に入荷するとは限りません。代金を多くお支払い頂ければ、支払額に比例して入荷の確率は上がります。尚、返金は一切不可です」となります。

 

それを、入荷するとは限らないのに代金さえ頂ければ絶対入荷します、と言い切るのは、詐欺なのではないでしょうか。

 

また、学校というものは、社会に出る前の準備期間、練習場としての意味合いを持つものと思われますが、今、現実的に大人の社会は大部分が競争社会であり、各々の出した結果が露になり、その成果をもって比較をされる場です。

 

そういった社会に出る為の準備をする場所、という事を考えれば、競争はあって当たり前、自分のした仕事は結果が可視化され、他人の成果と比較陳列されるのが当然という環境に慣れさせる必要があるのではないでしょうか。

 

勝たなければ意味がない、とか、負けてはいけない、といって追い込む必要は全くありません。勝ちを狙って上を貪欲に目指す子にとっては、勝ち上がる術を。勝ち上がらなくてもいいや、のんびり行きたい、という子には、成果によるランクが上がらない中で幸せに生きる術を教えればいい、私はそう思います。

 

勝たなければ意味がないと苛烈に競争で上に上がる事だけを強いる教育も、その反動でテストも運動も順位を付けず、競争というものを全く教えないのも、個人的に行き過ぎた極端な教え方だと思います。

 

、大人の世界には競争があり、順位が付き、比べられる。その事実をただ教え、その中で個々が思い思いに自由な道を選べるのが、一番幸せな形ではないか、そう思うのです。

 

私が長年聴いているラジオ番組のパーソナリティーさんが、こんな事を仰っています。「取り立てて何の取柄もない、なんでもない人間が存在している事が当たり前に許容される社会が、正常な社会である」と。

 

競争がある以上、優劣は付きます。ただ、社会生活というマラソンを、棄権せずに走り続ける意思があるだけで、自分自身で諦めなければゴールまで全員が走れる社会。タイムの差、順位はどれだけ開こうとも、走ろうとさえし続ければゴールまで大会から除外されることの無いマラソン大会こそが、理想の社会だと個人的には思います。

 

長々と書いてきましたが、私が今回言いたい事は唯一つ。

 

嘘を付かず、あるものをありのままに伝えあっていけば、目先の小さなトラブルを回避するために、嘘や誤魔化し、建前を駆使するよりも、ずっと簡潔で実りが多いのではないか、という事です。

 

そうなんです。嘘なんかつくと、ロクなこたぁないんです。現に、いかにも本当の事っぽく聞こえる嘘の蘊蓄、ウソチクを一時期大量に開発して遊んでいたら、今や自分の頭の中にパッと浮かんでくる豆知識が本物か嘘かわからなくなって、たまに本物と信じ込んだ自家製の嘘披露して痛い目見ますからね。

 

オチもつけたので、本日はこの辺で。