①哲学が社会を創る。

 

社会は、それを構成する人々の思想で創られているんじゃないだろうか。

と最近よく考えるんですね。

 

いや、それは政治や経済など、大きなしくみの中で動いているんじゃない?

と考える方もいるかもしれないですが、

 

より身近で具体的な例を上げると、

目の前にあるガラスのコップ、

これも誰かが最初はこんな素材でこんな形のものがあったらいいな、

と考えたから具体的なものになった、とも言えます。

 

それでは、その集合体である組織や社会も構成員の思想が創っているという

考え方もできるように思います。

 

そんな時に、(何かを考えていると、欲している本が目に飛び込むものです)

 

山口周氏の著書、

 

「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか」

(光文社新書)に出会い、読了。

現在、「武器になる哲学」(KADOKAWA)を読んでいる最中なんですが、

副題が「人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50とあります。

 

前著は、これからのエリート(リーダー)は「美意識」が必須であるか、

が様々なケースを上げて丁寧に語られています。

 

後著は、主な哲学者というより、

人生に役立つ哲学者の思考の形、概念が書かれています。

 

然り!と何度か声を上げそうになったので、

哲学に興味のない方にもおすすめです。

ちなみに学問としての哲学的知識は必要ありません。

 

一つ共通していえることは、日本には、基礎的な教養としての哲学教育が

ない、ということです。

そのことが、コストが高く、非合理的な社会が創られてきた可能性がある、

と思います。

 

②価値観をどの視点から見るか。

 

私がドイツへ旅行したとき、一番驚いたのは、

世界遺産ではなく、駅に改札がないことなんです。(2017年当時)

 

時々、抜き打ち車内改札があって、不正乗車がみつかると、

多額の罰金はあるようですが、基本的には乗客の良心に任されているようです。

 

日本で改札を無しにしたら何が起きるのでしょうか。

無賃乗車が増えて、

鉄道会社がつぶれてしまうという声が上がるかもしれませんし、

実際にそうなるかもしれない。

 

それから、フランスを旅したとき、ある地方都市でのこと。

私が朝食をテラスで取っていると、アラブ系の親子(母親と男の子)が

やってきた。

言葉はわからなかったけれど、粗末な身なりから、物乞いであることは、

すぐわかったんです。

かわいそうだと思ったのですが、何かの詐欺かもしれないと思って、

何も渡さなかった。

 

たまたま、近くに日本人親子がいて、父親のところにこの親子が物乞いしたところ、

いくらかのコインを手渡したんですね。

子どもが父親に「なんでお金渡したの?」と聞いた。

父親は「だって可哀そうじゃないか」と。

 

私はそれを見て、恥じたんですね。

お金を渡さなかったことではなくて、詐欺じゃないの?と疑ったこと。

もし、詐欺じゃなくて、本当は難民だったら、生活困窮者だったら。

 

同じ日本人でも思想(哲学)の違いで行動にこんなに差が出るんです。

 

私は、詐欺かもしれないから、お金を渡さないという行動をとった。

 

一方、そばにいた日本人の父親は、

詐欺かもしれないけれど、本当の困窮者かもしれないからお金を渡した。

 

10人のうち、9人は詐欺かもしれないけれど、

そのうちの一人は、本当の困窮者だったらいけないから、恵んであげた、

といってもいいかもしれません。

 

これは、先ほどのドイツの駅に改札がなく、

無賃乗車をする人が仮にいても、良心的な行動を取る人に信頼を置いて、

交通システムを作っているのと似ています。

 

昨今では、「入管法改正」がこのことと通底しているように思えます。

難民審査手続きをを改善しないまま、強制送還が容易になる法案が可決・成立

した。

 

本当は難民じゃなく、不正に国内滞在を申請する外国人もいるかもしれないから、

なるべくは国内に受け入れず、疑わしきは強制送還する。

 

「開かれた国」の理念のもと、不正は多少あるかもしれないけれど、

原則難民を受け入れるとしたメルケル政権(当時)と視点が真逆です。

 

誤解のないように付け加えれば、欧州の社会は善良で、日本は悪である、

ということが言いたいのではありません。

 

私も、前述のように、難民はできるだけ受け入れる社会がいいな、と

普段思っていても、実際は「物乞い」を疑ってしまったりするわけです。

 

これは、私の行動が哲学(思想)に裏付けされたものではなく、

感情や思い付きで、その場で行動しているからです。

 

ただ一つ付け加えれば、人を疑う社会システムというのはコストがかります。

具体例を上げれば、昔は鍵をかけずに寝る家もありました。

日本でも地域の信頼関係で成り立っていた時代があったからです。

 

今は、どの街にも防犯カメラは必須です。

それを管理する費用も馬鹿にならない。

 

信頼を基礎に置く社会がよいか、管理社会がよいか、

これは、その構成員たる人々の考え方によります。

 

 

話は戻ります。

 

社会は哲学(思想)を持った人々によって創られています。

哲学のない人々、美的センスがない人々による社会はそれなりの社会となります。

 

今日より明日が少しでも良い社会になるように想う人びとが、

それぞれの持ち場で、良き哲学(思想)を持てば、そのようになります。

 

自分一人がどう思ったって、社会が変わることはないよ、と冷笑的にみることは

簡単です。

 

しかし、一人一人が「思考の形」を身に着け、

現状の社会を無批判に受けいれるのではなく、

時には疑いの目を持って行動することが、大きい力を産むことは間違いありません。

 

最後に、

天台宗を開いた、最澄の「一隅(いちぐう)を照らす」という言葉があります。

 

自分の持ち場で、自分の持てる力を発揮して、良い社会を実現しましょう、

という教えですが、

AI技術の出現を始めとし、社会の価値観が複雑化した昨今にあっては、

敢えて「哲学をもって、一隅を照らす」人を目指したいものです。