東大の男子学生5人が、他大学の女子大生に強制猥褻行為をして逮捕された事件を基に書かれた小説。事件に至るまでのそれぞれの生い立ちから描かれている。

 

東大生たちの、手の、手首の、腕の、肩の、首の皮膚の毛穴、頭髪の毛穴、全身の毛穴から自信が噴出している。自分が優れているという自信は、まっすぐでのびやかだ。

 

東大ブランドは最強だ。誰もが参加できる「勉強」でトップなのだ。容姿などとは違い、そこには本人の努力の成果もある。みんなが大嫌いな勉強を頑張ったのである。誰はばかることなく自慢できるブランドだ。昔は「勉強はできるけど、つまらない」とか「勉強はできるけど不細工」などと言った偏見があったが、今の東大生は他の大学生と同じように、適当にチャラく、美男美女も多い。

 

「どうせ私だからね」それは僻みではない。放擲でもない。自足がもっとも近いかもしれない。

 

被害者となる美咲は、誰を羨むこともなく野心も持たず、平凡で幸せな家族の「いいお姉ちゃん」である。たまたま恋した相手が東大生で、その優越意識の犠牲になる。相手が東大生だから接近したわけではないのに。

 

支度ーカレにとっての自分の役割の支度ーをして。さびしい「わきまえ」だった。

 

頭のいい美咲はすぐに自分の立場を理解する。自分が想うようには「東大生」つばさは想っていないことを。最後だと思ってでかけた飲み会でも

 

こわばった顔を見せちゃだめ。重い女だと思われる。美咲は自分を諫めた。

 

しかし相手は・・

 

人として果たすべき責任は、飲み会を盛り上げること」としていたつばさは、そういう役割の責任として、飲み会に持ってきたのである。美咲を。タンバリンやマラカスとして。

 

事件後、美咲は「東大生狙いの尻軽女」とネットでたたかれる。

 

インターネットが危険なのは、すべての文字が、均一の電子活字であることだ。(中略)あたかも公的見解であるかのように表示される。不特定多数が目にする画面に。

均一の電子活字で書かれた意見は、偉い人からの『御意見』として美咲に突き刺さった。

 

当事者のことをよく考えもせず、思いつきで書いた中学生の感想も、新聞記事や様々な書籍と同じ活字で現れる。倫理とは無関係の「言論の自由」がそこにある。

 

誰にでも優越感と劣等感がある。上から目線で人をからかうのは楽しいが、自分がからかわれるのはどうか。最近は「いじってもらって」とありがたがる強者も芸人だけにとどまらないのかもしれない。「いじり」なのか「いじめ」なのか、その判断はからかわれている側にある。いやだと思ったら、その場から身をひくことは賢明だ。自分が正当に処遇されていないと感じるところ、あるいは人とは距離を置くべきであろう。美咲のように「惚れた弱み」があっても。

日常生活における潤滑油としてのユーモアに、からかいがあるのはふつうのことだ。すべては程度の問題であり、自分の言動が逸脱していないか、相手を傷つけていないかを測る能力は必須である。つまり、「自分がされて嫌なことは、他人にするな」ということだ。美咲の大学の教授が、全く自分の息子の非を認めない加害者の母に放った一撃には胸がすくわれた。彼女もまた辛い経験をしたひとりだ。彼女の入学式のスピーチも素晴らしい。

 

「人を馬鹿にしたい欲」は多分誰にでもあり、誰でも加害者になったり被害者になったりするのだろう。私自身加害者であり、被害者であった。加害者であったころの自分には相手を慮る知性がなかった。後年被害者となった時、因果応報という言葉が浮かんだ。知性のない相手に是正を求めるのも、無理なことだと思った。一生を馬鹿にする側で終える超勝ち組の人間もいるのだろうが、される側の痛みを知っている人間は彼らを冷笑して遠ざけよう。知性の足りない人間として。たとえ彼らが東大卒でも。