於今云須賀也、この地は、出雲風土記を細(こまやか)に考えると、まず大原郡須我山、郡家東北一十九里一百八十歩、須我小川、
源出須我山と見えて、又、同郡御室山、郡家東北一十九里一百八十歩、神須佐乃乎命、御室令造給所宿、故云御室、とも見える。
この御室は須賀宮とは別に作り給いしか、又、須我山もこの山も共に郡家東北一十九里、一百八十歩とあれば、相近い所であるの
で須賀宮の事をこのように伝えたのか、又、同郡須我社も見える。
又、意宇郡野代川、源出郡家正南一十八里須我山とある。
この須我山も即ち上の大原郡の事を言うのだ。須我山は大原・意宇二郡に渡って、その堺にある。
さて、同郡熊野山は郡家正南一十八里、所謂熊野大神之社坐すと見ゆ。
かかれば、須我山・熊野山は相並べる所であるから、共に郡家正南十八里とあるからだ、熊野神宮が即ちこの須賀宮處である。
故、思うに、久麻野(くまぬ)は隠れる野の義(こころ)で、久麻(くま)と許母理(こもり)と通う事は、傳三で言った如しである。
御歌詞の都麻碁微(つまごみ)の由であろう。
或る説に、須賀宮地は出雲郡出雲郷であり、式に出雲神社とあるそれであると言っている。
伊豆毛夜弊賀岐(いづもやへがき)と言う御詞によれば、信(まこと)にこの説も由なきにあらず。然れども、風土記に現に山川社な
との名に須我と見え、又、御室山の伝説、熊野神社など、彼是を思うに猶上の考えによるべきだ。
又、杵築大社の辺りに今その跡と言う所、又八雲山などと言うのが有るのは、後の世の作り事である。
さて、この神宮は、式に意宇郡熊野坐神社(名神大)とあるそれである。
風土記に熊野大社とあり、文徳実録三、仁禱元年九月、出雲國熊野杵築両大神、並加従三位、三代実録、貞觀元年正月、奉授正
三位、五月授従二位、九年四月授正二位。
さて、この社に、須佐之男命が坐すことは、國造神賀詞に、出雲國乃青垣山内爾、下津石根爾宮柱太敷立弖、高天原爾千木高知
坐須、伊射那岐乃日眞名子(ひまなご)、加夫呂伎熊野大神櫛御氣野命、風土記にも、伊弉奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命とある。
伊邪那岐命は多いなかで、天照大神月讀命須佐之男命はことに微愛子(みまなご)に坐すことは上に見えている。
日(ひ)は日子(ひこ)日女(ひめ)の日に同じ。
加夫呂伎(かぶろき)とは大名持命の御祖なる故に、出雲の国では殊にこう申しているのだ。
櫛御氣野命と申す御名は、他(あだし)神の如く思う人が有るかも知れないが、そうではない。これは須佐之男命が熊野宮に鎮坐
御霊を殊に稱(たたえ)申せる御名なるべし。
その例は、同神賀詞に、大穴持命の事を、倭大物主櫛瓦偏に長玉命登名乎稱天とある。この名も他には見えないのを思うべし。
式に、熊野と同郡に、久志美氣濃神社と言うのも別にあるのも、熊野の神を別に祠っているのだろう。
さて、𦾔事紀に、この須佐之男命を、坐熊野杵築神宮と言っているのは、例の妄り説(こと)でである、
又、師の祝詞考に熊野神社を穂日命の御子健三熊とせられているのは、熊と言う名に依っているが、誤りである。それでは叶わ
ない事が多い。
伊射那伎乃日眞名子と言い、又かの神賀の詞だけでなく、文徳実録・三代実録などにも、熊野は先、杵築は後に上げ、又勲位も
杵築は一等下っている。これら、かの健三熊命で叶うべきかは須佐之男命に坐すことは疑いがない。