「 おきて行く 空も知(し)られぬ 明(あ)けぐれに いづくの露の かかる袖なり(― 起きて出て行く

 

方角も知りえない明けぐれに、どこの露がかかって濡らす私の袖なのであるか。全て御身の故に濡れるのである)」

 

  柏木の歌

 

 

  「 あけぐれの 空に憂き身は 消えななん 夢なりけりと 見てもやむべく(― 明けぐれの空に辛いこの身は

 

消えてしまいたいものであるが、昨夜の事は夢なのであったと考えて済ませるように致しましょうよ)    女三宮の歌

 

 

 「 くやしくぞ つみをかしける あふひ草 神の許(ゆる)せる かざしならぬに(― どうも悔しくまあ私は

 

無理に摘んだ、罪を犯した、のであったよ、逢った葵草は神・源氏様が許さない挿頭であるのに)」    柏木の歌

 

 

 「 もろかづら 落葉を何に ひろひけん 名はむつましき かざしなれども(― 髪飾りにする桂と葵の二つの

 

うちの落葉・女二宮を何故かつて私は拾ったのであろうか、桂も葵もどちらも仲のよい姉妹であるが)」

 

  柏木の歌

 

 

 「 我が身こそ あらぬさまなれ それながら 空おぼれする 君は君(きみ)なり(― 我が身は如何にも

 

生を隔てて昔のままではない姿であるけれども、昔のままの姿で知らぬふりをする君は、昔のままの君でありますよ)」

 

    六条御息所の物の怪の歌

 

 

 「 消(き)えとまる 程(ほど)やは經(ふ)べき たまさかに 蓮(はちす)の露の かかるばかりを(― 私は

 

蓮の露が消え残っているばかりの短い間も、生きていることができるか、できない。私の命はたまたま蓮の葉に

 

頼って露が留まっている短い間だけのことです)」    紫上の歌

 

 

 「 契りおかむ この世ならでも 蓮葉に 玉ゐる露の 心へだつな(― 今から約束しておこうよ、この世

 

だけではなく、あの世に行っても蓮葉の上に玉と置いている露のように、私に少しの心隔てもするな。一蓮託生で

 

いようよ)」    源氏の歌

 

 

 「 夕露に 袖濡らせとや 日ぐらしの 鳴くを聞く聞く おきて行くらん(― 夕露に袖を濡らして泣けというて

 

御身は蜩の鳴くのを聞きながら、夕暮に起きて帰られるのであろうか。普通ならば、夕暮にお越しなされるものを)」

 

    女三宮の歌

 

 

 「 待つ里も いかが聞くらん かたがたに 心騒(さわ)がす ひぐらしの聲(― 私を待っている二条院でも

 

どう思ってこの蜩の声を聞いているであろうか、女三宮と紫上と、あちらこちらに私の心を悩ませる蜩の声で

 

あるよ))     源氏の歌

 

 

 「 あまの世を よそに聞かめや 須磨の浦に 藻盬たれしも 誰ならなくに(― 君が尼になって暮らしなさるのを

 

他人事として聞きましょうか、聞かない。須磨の浦に私が海人のようにかつて藻塩をたれながら、涙に濡れながら侘び住まい

 

したのも、誰のせいでもない君のせいだったのに)」    源氏の歌

 

 

 「 あま舟に いかがは思ひ おくれけん 明石の浦に いさりせし君(― どうして尼の私に出家することが

 

考え遅れたのでしょうか、明石の浦でかつて魚を取ることをした、蜑になった君が)」    朧月夜の内侍の歌

 

 

 「 たちそひて 消えやしなまし 憂きことを 思(おも)ひ亂(みだ)るる 煙くらべに(― 火葬の煙と一緒に

 

消えて、死んでしまいましょうかね、私が辛い物思いをして悩んでいる、その悩みを御身と競う為に)」

 

  女三宮の歌

 

 

 「 行くへなき 空の煙と なりぬとも 思ふあたりを 立(た)ちは離(はな)れじ(― 火葬の行くへが分からない

 

煙となって立ち昇ったとしても、恋い慕う御身の周辺からは離れまいと思う)」     柏木の歌

 

 

 

 「 たが世にか 種(たね)をまきしと 人問(と)はば いかが岩根(ね)の 松は答(こた)へん(― 誰の世に

 

かつて種を蒔いたかと人が尋ねるならば、どう言って岩根の松は答えるであろうか。薫が可愛そうである)」

 

    源氏の歌 

 

 

 「 時しあれば かはらぬ色に 匂(にほ)ひけり 片枝(かたえ)枯れにし 宿(やど)の櫻(さくら)も(―

 

時節、それが来れば昔と変わらない美しい色に咲き匂うのであった、片枝の枯れてしまったこの宿の桜でも)」

 

    夕霧の歌

 

 

 「 この春は 柳の目にぞ 玉はぬく 咲(さ)き散(ち)る花の ゆくへ知らねば(― 今年の春は目に涙の玉を

 

貫いて泣いて過ごしている、亡き柏木の行くへが分からないから)」    御息所の歌

 

 

 「 このしたの 雫(しづく)に濡(ぬ)れて さかさまに 霞の衣 きたる春かな(― 桜の木の下の雫に

 

濡れて、子が親の喪に服すると言う、自然の順序の逆に、親が子の為の墨染の衣を着た春であるなあ)」

 

  致仕大臣の歌

 

 

 「 なき人も 思はざりけん うち捨(す)てて 夕のかすみ 君きたれとは(― 亡き柏木もかつて考えていなかったで

 

あろう、父致仕大臣をこの世に残しおいて墨染の衣の喪服を父君に着てもらおうとは)」    夕霧の歌

 

 

 「 うらめしや 霞の衣 誰(たれ)きよと 春よりさきに 花の散(ち)りけむ(― 恨めしいことであるよ、

 

墨染の衣・喪服を誰に着よと言って、まだ春が来るよりも先に桜、兄の柏木は散ったのであろうか)」

 

 辯の君の歌

 

 

 「 ことならば ならしの枝に ならさなん 葉守(もり)の神の 許(ゆる)しありきと(― 馴れさせるのは

 

柏木と私の二人のどちらでも同じであるならば、柏木を馴れさせた枝・落葉宮として、親友であった私にも御身に

 

親しませて欲しいのです。葉守の神・柏木の許しが既にあったものと思し召して)」    夕霧の歌

 

 

 「 かしは木に 葉守(もり)の神は まさずとも 人ならすべき 宿(やど)のしづえか(― 柏木・私に

 

葉守の神・夫は御ありなさらないとしても、外の男を馴れ親しませることの出来る宿の下枝・私でありましょうか、

 

そんな私ではありませんよ)」    落葉宮の歌

 

 

 「 世(よ)をわかれ 入りなむ道(みち)は おくるとも おなじところを 君も尋ねよ(― この憂き世から

 

別れ御身が入ってしまいたいものであると思う菩提・仏道修行の道に、御入りは我に遅れても、我と同じ極楽浄土を

 

御身は求めなされよ)」    朱雀院の歌

 

 

 「 うき世には あらぬところの ゆかしくて そむく山ぢに 思いこそいれ(― この憂き世ではない所が

 

私は慕わしく懐かしいので、憂き世をよそにして逃れる山の中に、父朱雀院も共に住みたいと如何にも思い

 

悩んでおりまする)」     女三宮

 

 

 「 うきふしも わすれずながら くれ竹の こは捨てがたき 物にぞ有りける(― 柏木への哀れも、女三宮

 

に対する柏木の辛いことも、恨めしくて忘れないものの、子供は如何にも捨てがたいものであるよ)」

 

 源氏の歌    

 

 

 「 言(こと)にいでて いはぬも言(い)ふに まさるとは 人にはぢたる 気色をぞ見(み)る(― 言葉に

 

出して口で言わないのも、言うより以上に深い恋の思いであるということは、御身・落葉宮が人・私に対して

 

恥じらいを見せている様子で、如何にも分かりまする)」    夕霧の歌

 

 

 「 ふかき夜の あがればかりは 聞(き)きわけど 琴(こと)よりほかに えやは言ひける(― 月の夜更け

 

の想夫恋の哀情だけは私も聞き分けますけれども、和琴を弾くより以外に申し上げることは出来ませぬ)」

 

  落葉宮の歌

 

 

 「 露しげき むぐらの宿に いにしへの 秋にかはらぬ 虫のこゑかな(― 露がいっぱいに置いている

 

八重葎の荒れた宿に、柏木在世の昔の秋に変わらない虫の声・笛の音を聞くよ)」    御息所の歌

 

 

 「 横(よこ)笛の しらべはことに かはらぬを 空(むな)しくなりし 音(ね)こそつきせね(― 主はいないが

 

横笛の調子は残っていて、昔と格別に変わらないけれども、その笛の持主が既に亡くなった悲しみに泣く、虫の鳴く

 

音は如何にも尽きることをしない)」    夕霧の歌  

 

 

 「 笛竹(ふえたけ)に ふきよる風の ことならば 末(すゑ)のよながき 音(ね)につたへなん(― 竹にふきよって

 

来る風が、この笛をどこに吹き伝えるのも同じことならば、将来いつまでも子々孫々に伝わる音として伝えて欲しい)」

 

    柏木の霊の歌

 

 

 「 はちす葉を おなじうてなと 契りおきて 露のわかるる けふぞかなしき(― 蓮の葉を御身・女三宮と

 

一緒に住む台・うてな として一蓮托生と約束しておいて、夫婦の契りもなく別れている今日が如何にも悲しいこと

 

であるよ)」    源氏の歌

 

 

 「 へだてなく はちすの宿を ちぎりても 君が心や 住まじとすらん(― 隔心なく睦まじく一蓮托生と約束

 

なされても、御身の心は私とは一緒には住むまいと思うのでありましょうよ)」    落葉宮の歌

 

 

 

 「 おほかたの 秋をば憂(う)しと 知(し)りにしを ふり捨(す)てがたき すず虫(むし)の聲(こゑ)(―

 

一般の秋を私は如何にも辛いものと承知していますが、聞き捨て兼ねる鈴虫の声でありまする。源氏様が私に飽きて

 

しまわれたことを知って無念に存じておりまするよ)」    落葉宮の歌

 

 

 「 心もて 草のやどりを いとへども なほすず虫の 聲ぞふりせぬ(― 自分の心からで、すず虫・御身は

 

草の宿りを捨て尼となられたが、やはりまだ、鈴虫の声は古くなることはなく、若々しくて捨てがたい)」

 

  源氏の歌

 

 

 「 雲の上(うへ)を かけ離(はな)れたる すみかにも 物わすれせぬ 秋の夜の月(― 内裏を離れて退位した

 

住み家にも、物忘れせずに訪ねてきてくれる秋の夜の月である。月を見るのは何処であっても同じであるならば、

 

こちらに参って御覧あれよ)」    冷泉院の歌 

 

 

 「 月影は おなじ雲井に 見えながら わが宿からの 秋はかはれる(― 月の光・冷泉院は内裏におありでも

 

冷泉院におありでも、昔と変わらず同じ雲井に見られるのですが、私は現在の境遇のせいで秋の情趣は如何にも

 

変わったのでありましたよ。私は昔の状態ではないのです)」    源氏の歌

 

 

 「 山里の あはれを添(そ)ふる 夕霧に 立ち出(い)でん空も なき心ちして(― この山住いが物あわれなのに

 

更に哀れを加える夕霧のために、私はたとえ立ち帰ろうとしても帰っていくあてもないような気がする)」

 

  夕霧の歌

 

 

 「 山がつの 籬をこめて 立つ霧も 心そらなる 人はとどめず(― 山里人の垣根をひっくるめて立つ霧・私

 

も浮気心の御身の如き人はお泊めしません)」    落葉宮の歌

 

 

 「 われのみや 憂き世を知れる ためしにて 濡(ぬ)れそふ袖の 名(な)をくたすべき(― 柏木殿に

 

逢って情けない夫婦仲を知った見本として、柏木殿の為に涙を流し袖を濡らした上に、御身に逢って又袖を濡らして

 

私だけがひたすらに評判を汚すのでありましょうか。それは、あってはならないことでありまする)」

 

  落葉宮の歌

 

 

 「 大方(かた)は われ濡衣(ぬれぎぬ)を 着(き)せずとも 朽ちにし袖の 名やはかくるる(― たとい私が

 

御身に濡衣を着せなくとも、皇女として柏木殿に嫁した汚名は大体において隠れがあるでしょうか、隠れるものでは

 

ありますまい。ですから、一途に私に靡いておしまないなさいな)」     夕霧の歌

 

 

 「 荻原(はら)や 軒端(のきば)の露に そぼちつつ 八重(やへ)たち露を わけぞ行(ゆ)くべき(― 荻原の

 

軒端の荻の露に濡れながら、幾重にも立ち込めている霧を如何にも分けて帰っていくのであろう」」

 

  夕霧の歌 

  

 

 

 「 わけゆかむ 草葉(ば)の露を かごとにて なほ濡衣(ぬれぎぬ)を かけんとや思ふ(― 御身が帰路に

 

分けていかれるかも知れないその草葉の露に濡れるのを口実にして、私にまでもやはり濡衣を着せようと考えるか。

 

それは全く珍しい仕打ちであるなあ。そんな事はまだ聞いたこともない)」    落葉宮の歌

 

 

 「 たましひを つれなき袖に とどめおきて 我が心から 惑はるるかな(― 魂を薄情な御身の袖に残し

 

留めて置いて、自分の心ながらもぬけの殻の私はどうしたらよいのか、判断もつかずに自然に惑われるのですよ)」

 

    夕霧の歌

 

 

 「 女郎花(をみなへし) しをるる野邊(のべ)を いづことて 一夜ばかりの 宿(やど)を借りけん(― 

 

落葉宮が思いしおれている所であるものを、何処と思って常人の如くに、ただ、一夜限りの宿を借りたのであった

 

だろうか。もう二度とは来ないくせに)」    御息所の歌

 

 

 「 秋の野(の)の 草のしげみは わけしかど 假寝(ね)の枕(まくら) むすびやはせし(― 先夜、御見舞いの

 

ために秋の野の草深い所は踏み分けたけれど、落葉宮とかりそめの一夜の枕を結びはしたか、しなかった。従って

 

弁明申し上げるのも筋道が立たないけれども、昨夜訪問しなかった御咎めは黙ってお引き受けいたしましょう)」

 

    夕霧の歌  

 

 

 「 あはれをも いかに知(し)りてか なぐさめむ あるや戀しき なきや悲しき(― 御身のしみじみと

 

悲しんでおられるのに対して、私はその理由を何と承知して、慰安致しましょうか。そもそも生き残っておられる

 

落葉宮が恋しくてか、亡き御息所が悲しくてか。どちらともわからないので、慰めようがない)」    雲井雁の歌

 

 

 「 いづれとか わきて眺(なが)めむ 消えかへる 露も草葉(ば)の 上(うへ)と見(み)ぬ世(よ)を(― 

 

どちらと言って特に思いつめて悲しんでいいようか、悲しんでいるのではない。人の身のように直ぐに消えてしまう

 

露も草葉の上に留まっていると見ない、無常のこの世であるから)」    夕霧の歌