樂は、阿曾毘(あそび)と訓む。凡て樂は、和名抄に、雅楽寮宇多麻比乃豆加佐(うたまいの柄さ)と見え、書紀顕宗の巻に、奏樂
(うたまいきこしめす)などある訓は宜しく聞こえるけれども、なお思うに、阿曾毘(あそび)と読むのがよいだろう。
後の世でも。この段の樂を即ち神遊びと言っている。(古今集に見える)
落窪の物語には、樂をあそび樂と重ねて言っている。この事なお委曲(つばらか)には訶志比(かしひ)の朝の段に、猶阿蘇婆勢(あ
そばせ)其大御琴とある所で言う。
又、阿曾夫(あそぶ)と言う事は下の天若日子の喪の段にも出て、そこでも言う。
扨て、書紀に嘘樂(えらぐ)とあるのは、鈿女命を挙げて諸神を兼ね、拾遺に歌樂とあるのは、群臣を挙げて鈿女命を込めてい
る。
この記では鈿女の命と諸神を並べて挙げている。引き合わせて見るべきだ。
さて書紀の一書に、於是天児屋命云々、日神聞之曰頃者人雖多請(このごろひとさわにもうせども)、未有若此言之麗美者也(かく、赤
ことのうるわしきはいまだあらず)、乃細開磐戸而窺(のぞみ)之ともある。
益は麻佐理弖(勝りて)と訓むべし。万葉にそう読む例が多い。
持統紀に、築紫史益と言う人名をもマサルと訓を付けている。ここは勝の字の意である。
麻佐留(まさる)は益(ます)を延べたもので、本は同言である。それで益の字を通わせてここでは書いている。
歓喜咲の三字を恵良岐(えらぎ)と読み、樂の字は阿蘇夫(あそぶ)と訓むべし。
上の樂(あそび)は爲(し)とあるので体言であり、ここではそれを用言に言っているので、意は同じである。
恵良具(えらぐ)とは、咲栄楽(えみさかえたぬし)むを言い、續紀二十六大嘗祭の豊の明りの詔に、黒紀白紀能御酒乎(くろきしろ
きおほみきを)、赤丹乃保仁多末倍恵良伎(あかにのほにたまへえらぎ)云々、又、三十の詔にも、黒紀白紀乃御酒食倍恵良伎(おおみ
きたまへえらぐ)云々と見え、万葉十九に、豊宴見爲今日者(とよのあかりみしせすきょうは)云々、千年保伎保伎吉等餘毛之恵良恵
良爾仕奉乎見之貴佐(ちとせほぎほぎきとよもしえらえらにつかえまつるをみるがたっとき)などとある。
書紀に、嗜樂とあるのも訓(よみ)、叉雄略の巻に歓喜盈懐(えらぎます)ともある。
今この記に上の二つにはただ咲の字だけを書いているのは、和良布(わらふ)と訓む。さて、ここには歓喜の字を加えたのは、恵
良具(えらぐ)と訓むべきで、上のは俳優のおかしいのを笑うのだ。ゑらぐではない、次のはゑらぐとてもありぬべけれども、なお
咲くの一字であるから笑うである。
さてここは宇受賣命が謀(たばかっ)て申す詞であり、己の俳優と諸神の咲(わらい)とを合わせて真実に面白く楽しみ遊ぶさまに言
いなしたのだ。それで歓喜の二字を加えたのだ。心を付けるべきだ。