(阿弥陀如来坐像 鎌倉の大仏)

 

 

 

(番外)3月20日、春分の日――阿弥陀如来の光に還る

 

春分の日は、昼夜の長さが等しくなり、太陽が真東から昇り、真西へと沈む。その天体の厳密な運行のうちに、かつての日本人は、自らの魂が還るべき「一点」を確かに視ていた。西方に阿弥陀如来の極楽浄土がある――そう信じられたとき、その「西」は人間の魂が最後に辿り着くべき、絶対的な肯定の場所の象徴となった。

 

お彼岸の中日、沈みゆく夕日をじっと見つめる「日想観」。我々のうちにある迷いの此岸の空で輝いていた日輪が地平線に没する刹那、すなわち此岸の光が消滅する瞬間に、私たちは彼岸に輝く消えない光を視る。形あるものが消えゆくとき、なお消えないものがあるのを観る。このとき私たちの世界である此岸は、光の向こうの彼岸へとつながっている。――この感覚こそ、人間の心のもっとも深い真実ではないか。浜崎洋介は「現在を生きるとは、過ぎ去った者たちとの絆をいまここで結び直すことだ」と言った。

 

阿弥陀とは「無量の光」「無量の命」を意味する。人間の知恵など、高が知れている。あれこれ悩み、あがき、ついには自らの無力に打ちのめされる。しかし、そのどん詰まりの闇の中で、なお自分を照らし、包み込んでいる何かがあると感じるとき、その何かに与えられた名が阿弥陀なのだと言ってよい。小林秀雄は「信ずるとは、知らぬものを知らぬままに受け容れる力だ」と言ったが、その「知られざるもの」こそ、阿弥陀の光にほかならない。現代人は、「私たちの歴史、伝統、風土、故郷」との「断絶」という重症の病を抱えているが、阿弥陀の光に包まれたとき、人は初めて「自分は断絶を超えてつながっている」という感覚に触れる。吉本隆明が、人間は最後には「たった一人で世界と向き合うほかない」と言いながらも、その孤独を貫いたところに本当の他者への通路が開かれると語ったのも、この一点に通じるだろう。

 

春分の日、自らの小さな計らいをいったん手放し、「阿弥陀」という名で呼ばれてきた絶対の慈悲の中に、自分の命をそっと預けてみたい。そうして人は再び、それぞれの現実へ、もう少しまっすぐに歩き出す勇気を取り戻していくに違いない。

 

 

 

 

 

(次回は3月24日です)