ゲストハウスの部屋で目を覚ますとケイが床に座っていた。傍らに栓を抜いたビール瓶が一本置いてある。
「お腹空いたわ。」
ケイが不機嫌そうに言った。
午前1時半頃、ヤーム(夜警)を起こさないようにバイクを路地まで押し出して、ナイトバザールの裏手にあるタラート・シリコンに行った。
「オーンが、夜中に腹が減ったらここに来いって教えてくれたんだ。でも、日本人一人で来るのは危ないかもね。」
運ばれて来たカーオ・パットを食べる。ケイは注文したものを食べようとせず、黙っている。私がファーイと話すと言ったので怒っているのだ。
「これ包んでくれる!」
ケイが店のおばちゃんに言った。
「いくらなの?これとこれを頼んで……。」
ケイがイラついて金を払う様子を見て、おばちゃんが可笑しそうに笑った。
ゲストハウスに帰ってベッドに横になると、ケイは残った一本のビールの栓を抜いて床に座り込んだ。
朝、目を覚ますとケイが隣で眠っていた。そして、ケイの持ち物がすべて消えていた。トイレに行って(シャンプーとボディーソープも消えている!)部屋に戻ると、ドアの傍にケイの旅行バッグが置いてあるのに気付いた。やれやれ。(私が眠っている間にヤームにバンコック行きのバスの時刻を聞き、バス会社に電話までしたらしい!)
ドアをそっと開け、サンダルを履いて受付にコーヒーを飲みに言った。
「ハロー、ティー・ラック(愛しい人)。」
そう言うとカウンターのリウが顔を上げた。
「私、あなたのことをホントに待ってたのよ。ホントよ。」
以前誰かが言っていたように、リウは少し斜視になっている。
「キットゥン(恋しく思う)?」
「ええ。」
リウが真顔で頷く。
「彼氏はどうしたの。」
「彼とは別れたわ。」
「えっ!何で今頃そんなこと言うんだよ。(ったく、もう!)」
「テツヤは恋人いるの?」
「いる訳ないじゃん。ペン・ソート(独身)だよ。」
人の気配に気付いて振り返ると、ケイが入口に立ってこちらを見ていた。
気まずくなったので、ケイを誘って路地の奥にあるバーンブア・ゲストハウスに行ってみた。
「朝食?」
庭にいたミャンマー人の女が聞いた。
「いや、挨拶。」
ケイを待たせて受付の網戸を開けると、女性オーナーのティムがテーブルにいた。
「サワッディー・クラップ。」
「あらあ、どうしたの?」
「挨拶に来ました。」
ティムはペンタブレットで何やらしているが、操作がうまくいかないようだ。
「ノンならいないわよ。結婚したのよ、彼女。」
ノンとのことは、一度もブログに書いていない(と思う)。
「ブライアン(イギリス人の夫。)は亡くなって何年になりますか。」
私が初めてチェンラーイに来た時、このバーンブア・ゲストハウスに長居した。飲み過ぎて体調を崩した私は、ある日ブライアンに「禁酒する。」と宣言した。「賭けるか?」とブライアンに聞かれ、「賭ける。」と答えた。その晩、暗い庭を横切って部屋に戻る途中、私は突然の灯りに驚いて立ち止まった。目を細めて光源の方を見ると、懐中電灯を手にしたブライアンが私の抱えたビール瓶の入った袋を照らしてニヤリとした。
「もう四年よ。」
「どうして亡くなったんですか。癌だったと言う人もいますが。」
「違うわよ、癌じゃないわ。」
「ヌァ・ンゴーク(腫瘍)ですか、サモーング(脳)の?」
「何って言ったの。理解できないわ。」
「ブレイン・トゥーモア。」
タイ語が通じないので英語で言い直した。
「ハート・アタックで死んだのよ。」
ケイが入って来て私の胸ポケットからタバコを持って行った。
「彼女と結婚したんです。」
「そう。出身は?」
「クルンテープ(バンコック)です。」
「へえ、クルンテープの女と。」
「それじゃあ、そろそろ帰ります。」
「ちょっと待ちなさいよ、すぐ終わるから。」
「彼女が待ってますから。」
「待ちなさいって!すぐ終わるからさ。」
「また来ますよ。」
網戸を開けて外に出ようとした。
「アハハハハ、アカ(族の娘)が好きだったんじゃないの!」
ティムが可笑しそうに後ろから叫んだ。