蓮如上人と山科本願寺(3) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

鏡山 次郎

●山科本願寺につながる数々の史跡

 しかし、この土塁や堀などの遺構なども、山科の近代化の中で、徐々に壊されて行きます。大正から昭和初期にかけて、竹鼻・西野地域には近代工場が誕生し、人口も爆発的に増え、商店街も発展しました。こんな中、大正11年(1922)に、この地は、多いときには1656名の 工女が働く、大きな「鐘紡山科工場」の敷地となりました。鐘紡工場は昭和45年(1970)に滋賀県の長浜へ移転し、現在はその跡に山科団地や山科中央公園が建設されています。
 しかし、そんな中でも山科本願寺や蓮如上人に関わる、数々のものがこの山科には残されています。
  まず、「蓮如像」ですが、音羽・光照寺、竹鼻・長福寺(東御坊)、西野・西宗寺などにその姿を見ることができます。また、「当時の様子をあらわした地図」ですが、音羽・光照寺、洛東高校、大谷大学、西野・西宗寺などにも残されています。
「南殿」は蓮如上人の隠居所として、ご門主のおられる山科本願寺=北殿に対して名付けられたと言われています。「南殿跡」も国の史跡になっています。山科本願寺の「土塁」跡で、山科中央公園に残る土塁跡も、市民の運動で国の史跡に指定されています。また、西野地域にもまだいくつかの土塁跡が残っています。
 「山科本願寺関連の寺院」ですが、山科には西御坊・東御坊をはじめ、音羽の光照寺、西野の西宗寺、椥辻の法敬寺(ほうきょうじ)など、蓮如上人ゆかりの寺院が多く残っています。また、山科の伝承話として残る、蓮如上人の「御指図の井」(音羽)や「蓮如上人御廟所」なども良く知られており、山科区民から親しまれています。また、御廟所への道を案内した、道標も数多く残されており、たいへん貴重な歴史遺産となっています。

●「蓮如さん」を引き継ぐ

 蓮如上人は、明応8年(1499)3月25日に亡くなられます。ご往生のの地は、西野の西宗寺と音羽の光照寺の2説がありますが、いずれにせよ山科本願寺で亡くなられたのは間違いありません。蓮如上人のご遺体は火葬にされ、御廟所中央の塚に葬(ほうむ)られました。その後、江戸時代にこの御廟所を挟んで東・西本願寺の山科別院が建立されました。

 また、この辺りの「地名」についても、山科本願寺との関連が見られます。「西野様子見町」ですが、「様子見」は、土塁の高い所から見張る場所で、お寺の北西の角辺りであったとされています。また、「広見町」は、土塁の外を広く見渡せる場所でした。また、「大手先町」は、 山科本願寺の入口、「大手門」にあたります。そして、「東野片下り町」ですが、現在の西御坊から、實如上人・證如上人の墓に到る参道が、北西から南東に伸びていたため、そう呼ばれたといいます。この道は、明治42年、1909年の地図にもはっきりと残っております。
 また、「蓮如上人銅像」ですが、台座を合わせると高さが10メートルにもなる大きな像で、昭和9年(1934)9月に建立されたのですが、戦時中の昭和19年(1944)、金属供出のためになくなってしまい、今は台座のみが露呈しています。像が供出された当時、地元の人たちは「蓮如さんも戦争に行ってしまわはった」とたいへん残念がったと言います。
 最後になりますが、私は、山科に生まれ、山科で育ち、山科に生きる者として、こうした山科本願寺の歴史は、地域の宝物だと思っています。このふるさと山科の宝を多くの人たちに伝え、また継承していきたいと願っております。みなさんと共に、こうした仕事に取り組ませていただければ、たいへんうれしく思います。

(終)