お仕事の関係で熊野古道と古里について妄想にふけってみました。
ここからは僕が今まで得たほんのわずかの知識と直観と偏見で書きますので軽く読み流してください。

$古里にて-10/9/2


この時代に紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産登録された意味。

明治維新以来日本が進めてきた「骨格のないキリスト教化」=キリスト教義がもとになった倫理は抜いて人民統制のためのシステム(個人的に僕は国家宗教はある面では国民をコントロールするための手段だと思っています。)の結果としておこった現代の閉塞感と行き詰まり感。これは結局はものごとを優劣づけて判断して、一つの絶対的な価値を与えるシステムの弊害だと思います。

熊野信仰の意義は様々な価値観の受容にあると思います。古くから黄泉の国、死の国だと言われていた場所。あの世では現世の倫理が通じない全く何でもアリの世界。言葉を換えれば現世のどんな人間も受容する世界だったと考えられていた。そんな場所で山岳信仰、修験道、仏教、神道とさまざまな宗教の聖地が共存してきた。日本人のいい意味でのほがらかさの象徴のような場所だとおもいます。今の世の中に必要な個人のたくましさと他者をいたわる心の原点がこの世界遺産には内包されていると思います。だからこそ世界遺産になりえたのではないでしょうか。

そして古里。この場所も古くから伊勢路を歩く旅人の通り道です。民宿が栄えたのは昭和中期ころかららしいですが、それでも地元の人の旅人に対するまなざしはその前からあったかかっただろうし、今でも古里の人は伊勢路を歩く人に親切です。熊野古道を歩いている人が迷っているようだったら道を教えてあげる、お茶を出す、ちょっとお話しする。そんな光景が今でも見られます。こういう地元の人たちも他者を「受容」している。こういうことを現代語に言い換えると”癒し”と表現させるのではないでしょうか。

僕は宗教学者でも民族学者でもないので、この意見は間違っているところがたくさんあるかもしれません。でも日本人の心の原点はやっぱり他者を受け入れること、にあると思うし、熊野古道と古里はその心が現在でも色濃く残っている場所だと思います。

なんかよくまとまっていない割に長い文章になっちゃった。笑