ゆっくりと開かれた扉の向こうに人影が一つ。

人影は、ひょろりとして背が高く、白いポロシャツと青いパンツを身に着けている。
一見すると何の変哲のない容姿であるのだが……。

 

宮はアンディの背中に隠れるようにしがみついた。
肩を掴む彼女の手は、恐怖のためか小刻みに震えている。

 

だが宮を気遣っている余裕はなかった。
彼自身、自分の目にしているものに呆然としていたからだ。

 

現れた人影の首の上。
その顔はおよそ人間とはかけはなれたものだった。

 

額は広く、五百円硬貨の倍はありそうな巨大な目玉は顔の左右に離れ、鼻梁のない鼻には穴だけが開いている。
下アゴは前に突き出し、極端な受け口で、口の中の上下には人のものでないとわかる鋭い牙が覗いている。

また首の左右の側面には水平に四本の切り込みがあり、サメが持つエラ孔のようだった。

 

最初、マスクでも被っているのだとアンディは思った。
だが、ヌラヌラとした目玉が、ぐるりと動くのを見て、それがマスクでないと確信した。

 

「に、人間?」

 

背中で震える宮が小声で尋ねる。

 

「わからない。顔以外は人間ぽいけど」

 

確かに顔がくずれているのを除けば服装も髪型も一般人とかわらない。
特に髪型などは七三に分けられ、ジェルか何かで固められている。
それが余計に顔の不気味さを際立たせた。

 

「くくしゅふふるるる……」

 

異形のものは鋭い牙の並ぶ口から息を吐くように不気味な声を出した。

アンディは恐怖で体が硬直するのを感じた。
これに関わってはならない、頭の中で本能がサイレンを鳴らす。

 

異形のものも靴を履いておらず、人と変わらぬ素足だったが、床を踏みしめるたびに、にちゃ、にちゃ、という音が聞こえた。


よく見ると足に透明な粘着物がまとわりついている。
不気味な音は、この粘着物が原因だったのだ。

 

粘着物は、足だけでなく露出している両腕、そして顔面をも覆っていた。
さげられた両腕の指先から床に向かって、粘着物が糸を引きながら幾筋も落ちている。

 

異形のものは、にちゃ、にちゃという音とともに、夢遊病者のような覚束ない足取りで二人の方へ近づいてくる。

 

「――嫌っ」

 

アンディにすがる宮の手に力がこもる。
背中から伝わる彼女の温もりが、アンディの気持ちを奮い立たせる。
身を回して、宮をかばうように抱きかかえた。

 

「大丈夫、俺が守るから。とにかく逃げよう」

 

宮はアンディを見つめ、素直に頷く。
透明感のある栗色の瞳が潤んでいる。
アンディはその可憐さに一瞬気をとられた。

 

二人は異形のものから目を離さないように少しずつ後ずさった。
幸いなことにそれの動きは遅く、逃げるのは難しいことではないように思えた。

 

異形のものは、まるで二人を捕まえようとするかのように、ゆっくりと両腕を前に突き出した。

 

扉まであと数歩まで来たのを見計らい、二人はきびすを返して部屋を飛び出した。

 

アンディは廊下の左右を見回す。
廊下の景色は、どちらに向かっても全く同じで、アンディを冷ややかに見つめているようだ。

どちらにいけば良いのかわからなかった。

 

「大じょぶ?」

 

宮の気遣わしげな瞳が上目遣いにアンディを見つめる。

自分を励ます彼女の想いが伝わる。

 

「ああ、大じょぶだよ」

 

「良かった」

 

宮は首を傾げて微笑む。
まぶしくて美しい笑顔だった。

 

ふいにアンディの心の奥から宮に対する愛しさが込みあがってくる。

アメリカ時代なら宮を思い切り抱きしめていたかもしれない。
しかし日本ナイズされすぎたアンディは直情的な行動が難しくなっていた。
宮への気持ちを抑えて、ただ優しく微笑み返す。

 

「こっち行こ」

 

宮が白く細い指で廊下の左手を指し示す。

 

「OK」

 

アンディが答えたとき、背にした扉のドアノブがガチャガチャと回される音がした。

 

「くくしゅふふるるる……」

 

扉の向こうから、かすかにあの声が聞こえる。
それを聞いた二人は顔を見合わせると、廊下を左に向かって走り出した。

 

廊下の色彩は部屋と同じで、天井と壁が白く、床は薄緑色である。
天井には蛍光灯が等間隔で縦に並び、白い光を投げかける。

 

走っても走っても、その景色は変わらない。
どこまでも廊下は続き、どこまでも扉は並ぶ。
あまりに静かで、むし暑くて、不気味だった。

 

焦燥感と恐怖、そして疲労感からアンディは気分が悪くなり吐き気を覚えた。
横を走っている宮に目をやると彼女の顔も青ざめている。
きっと宮もこの耐え難い景色に心を侵されているに違いない。

 

アンディは後ろを振り返り、異形のものの姿を確かめた。
はるか後ろに伸びる廊下に、あの恐ろしい姿は見当たらない。

 

「少し休もう」

 

アンディは宮に声をかける。
宮は、ほっとした顔で頷いた。

 

二人が立ち止まった場所は最初にいた場所と寸文の狂いも無い。
白い左右の壁にある灰色の金属製の扉が、二人をむっつりと監視していた。

 

アンディは深呼吸して息を整えた。
宮も両膝に手を当てて、肩で息をしている。

 

「ここまで来れば、あれも追ってこないよ」

 

アンディは宮を励ました。
宮は顔を上げ、苦笑いを浮かべる。

 

「これだけ走ったんだ、あんなのろまに追いつかれて……」

 

そう言いながらアンディは後ろを振り返る。
そして息を呑んだ。

 

目の前に青いクーラーボックスがあったからだ。

 

ついさっき、そこを走りぬけた時には何も無かったはずなのに。

しかも側面には赤い手形がべっとりとついている。
これもきっと血だろう。
手形の他にもたくさんの血の跡がボックスのロック付近にまとわりついてた。

 

何者かがボックスを開けようとしている。
その手にはべっとりと赤黒い血のり。
血のりで滑るのか、何度もロックのあたりをまさぐっている。

 

まさぐっていた手が止まり、赤い手の主がゆっくりと顔を上げた。
巨大な目玉と半開きの口に並ぶ鋭い牙。
目玉がぐるりと動いてアンディを睨んだ。

 

――脳裏に浮かぶ悪夢。

 

全身に鳥肌が立ち、アンディは頭を振って悪夢を追い払った。

 

「その箱……」

 

クーラーボックスの存在に気付いた宮が、静かに歩み寄り、その前にしゃがみこんだ。

 

「また、血だね……」

 

宮が、ぼそりと言った。

 

「ああ」

 

「何か入ってる……よね……?」

 

「多分」

 

「開けてもいい……?」

 

アンディは耳を疑った。

 

「本気で言ってる?」

 

「うん」

 

アンディに背を向けてしゃがんでいる宮が、どんな表情をしているのかはわからない。
だが宮もわかっているはずだ。

 

入ってるものは、きっと人体の一部に違いない。
絶対にそうだ。
それなのに彼女は箱を開けるという。

 

何かがおかしい……。

 

宮は最初から見たがっていたような気がする。
彼女は何か知っているのだろうか。
疑念の黒い霧がアンディの心に渦巻いた。

 

アンディの思いをよそに、宮は血のついたクーラーボックスに平然と手をかけ、ロックを外す。
そして、ゆっくりと蓋を開けた。

 

「やっぱり……、ねぇ、見てよ……」

 

アンディを振り返ることなく宮は言った。

 

頭は見ることを拒んでいた。
しかし心が見ることを強いた。

 

アンディの足は操られたように動く。
ボックスの前に立ち、顔を下に向けた。

 

そこにはあったのは赤黒く、そして光沢のある幾つかの塊。
アンディは以前、面白半分でネットを検索し、その画像を見たことがあった。

 

肝臓、腎臓、脾臓、肺、そして心臓……。

 

それらは取り出したばかりのように鮮やかな色をしている。
アンディは気分が悪くなり、急いで壁際に行くと、こみ上げたものを吐き出した。

 

そんな苦しみの中、アンディの心に一筋の光が射す。
黄色の光は臓器の中の一つを照らした。

 

「ねぇ、アンディ……、これ見て、何か感じた……?」

 

後ろから宮の声がした。
怖いくらいに、ひっそりとした声だった。

 

「ああ、光ってる気がする」

 

アンディは汚れた口元を腕で拭いながら答えた。

 

「ほんとっ! どれ?」

 

宮の声のトーンが一気に上がった。

 

「肝臓だと思う」

 

「肝臓! そっか!」

 

宮は明らかに悦んでいた。
アンディは振り返りながら宮に対して感じた疑念を口に出した。

 

「宮、君は何か知って……」

 

振り返ったアンディの目に飛び込んだのは、右手で肝臓をわしづかみにし、ほくそ笑む宮の姿だった。

アンディは呆気に取られ、何も言えずに立ち尽くす。
肝臓を持った宮は楽しげに言う。

 

「ありがと、アンディ。やっと手に入れたよ」

 

「み、宮、君は……一体……?」

 

恐怖と絶望が入り混じりアンディの身体を凍りつかせた。

 

「時間がないんだ。説明は後。それより僕の手紙出して」

 

「やっぱりあれは君が書いたのか」

 

宮は悪戯っぽく頷いた。

 

そのとき廊下のあちこちから扉のノブを回す音が聞こえ始めた。
宮の表情が一変する。

 

「早く、手紙出して!」

 

彼女は明らかに平静を失っていた。

廊下にある全ての扉が徐に開き始め、中からあの声が聞こえた。

 

「くくしゅふふるるる……」

 

声は一つでなく無数に重なって発せられていた。

 

「アンディ、早く!」

 

アンディは、ためらいながらもポケットから手紙を取り出し、宮に差し出した。
宮は左手で手紙を奪い取ると、額にあて、意味不明な言葉をつぶやいた。
その声は低く、まるで男のようで、テレビから流れ出した声とそっくりだった。

 

「いあ、いあ、はすたあ、はすたあ」

 

みるみるうちに手紙が黒く変色していき、その中心から黄色い渦が湧き上がる。
渦は次第に大きくなっていき、宮とアンディを頭上を覆った。

 

「これって……」

 

アンディが見上げていると渦はゆっくりと降りてきて円柱状になり、二人と外界を隔てるように囲みながら回転を続けた。
回転する黄色い光が身体を通り過ぎていくたび、アンディの意識は薄らいでいった。

 

「やっと僕の夢が叶う……」

 

黄色の輝きの中、赤黒い肝臓を愛しげに頬ずりする宮がいた。
白い頬を赤い血に染める宮の顔は、なぜか神々しく、人間離れした美しさをたたえている。

 

そんな姿を見るうちに、アンディは意識を失い、倒れこんだ。

 

 

 

どれだけの時間が経ったのだろう。
ふいにアンディの意識が戻る。

 

彼はむき出しのコンクリートの床に仰向けで寝ていた。
起き上がろうとしたが身体が思うように動かせない。

 

見上げると天井にはベッドがあり、赤い人物が横たわっていた。
周りには背の高い燭台に立てられたロウソクが数十本あり、オレンジ色の炎を上げている。

ベッドの傍には白い人物が、蝙蝠のようにぶらさがって、こちらを見ていた。


まだ視力がはっきりしないので誰だかわからない。

しかし不思議な景色だった。
まるで重力が逆転したように白い人物もベッドも燭台も、こちらに落ちてこないのだ。

 

「アンディ、気がついたね」

 

白い人物がアンディに向かって言った。
宮の声だった。


徐々に視力が戻っていく。

驚いたことに宮は一糸まとわぬ姿だった。

しかも、その美しい裸体は全身ぐっしょりと血で濡れていた。

 

形良くツンと立った乳房から、柔らかな腹部を越え、わずかな陰部の綿毛を濡らし、太腿の辺りまで、光沢のある鮮血に染まっていた。

宮は悪戯っぽい目つきでアンディを見上げている。

 

「アンディ、苦しくない?」

 

「うん、大じょぶだけど」

 

アンディは素直に答えた。

 

「俺達一体どうなったんだ? 今どこにいるんだ? それに宮、なんで君は天井からぶらさがっているんだ」

 

「ふふ、ここはね、都心から離れた廃病院。滅多に人が来ないから、ちょうど良いんだ」

 

「ちょうど良いって?」

 

「解剖にさ」

 

「解剖!」

 

アンディの背筋を戦慄が駆け抜け、視線は天井に張り付いたベッドに横たわる赤い人影に向かった。

 

「まさか、それ」

 

「そうだよ」

 

ベッドに横たわる人物が赤いのは、全身血にまみれているからだった。
おそらく男であろう人物は胸から腹にかけて縦に裂かれ、取り出された内臓が腹の周りで粘ついた光を放っていた。

 

「まさか、殺したの……?」

 

「心臓や肝臓を取り出したら普通は終りだよね」

 

「それじゃやっぱり、あれは君がやったんだな」

 

「うん」

 

「なんで、そんな酷いことを」

 

「これを見つけるため」

 

宮は右腕を上げ、手の中にある物をアンディに見せた。


握られていたのは黒い石で、表面に黄色い模様があった。

それが何なのかはわからない。
あえて表現するならば、二つの大鎌を構える足の無いカマキリのような姿で、頭部と思われる箇所には目が一つだけ描かれている、そんな模様だった。

 

「僕の一族は長い間これを探してたんだ。僕等の主を顕現させるために」

 

「主?」

 

宮は黒い石を胸元で握り締める。

 

「百数十年前まで、僕等の主は必要なときにいつでも姿を現してくださったんだ……。だけどあるとき、それができなくなってしまった」

 

アンディを見上げる宮の視線が針のように鋭くなる。

 

「君の曾祖母、テシーのせいだよ。彼女は君の曽祖父、スコットから、この印を盗んだのさ」

 

「曾祖母が曽祖父から盗んだ……?」

 

「あの時、本当ならスコットが主の器となるはずだった。でも、テシーがスコットの体内から印を持ち去ったせいで、それは叶わなかった。普通の人間にそんなことできない。テシーには、僕等の主と対立する別の存在が肩入れしてたんだ」

 

宮の顔が悪鬼のようにゆがむ。

 

「陰鬱な海で惰眠を貪るタコ野郎め!」

 

宮はツバを吐くと、忌々しそうにののしった。

そのときアンディの心にトイレタンクに浮かぶ耳の映像が浮かんだ。


切り取られた右耳にはダイアのピアスがついていた。
自分がしているのと良く似た……。

 

アンディは、はっとして血に染まる人物の顔を注視した。


目をくりぬかれ、耳をそがれた顔。

 

――それはアンディ自身の顔だった。

 

アンディは声にならない叫び声をあげた。

 

「ごめんね、アンディ。君は悪くないんだ。テシーが自分の子供の体内に印を隠したことが原因なんだ。子供が死んで孫へ、孫が死んで曾孫である君の体内へ、印が移ったんだ」

 

宮は片目をつぶり、アンディに向かって両手をあわせた。

 

「あのタコ野郎は君の心に迷宮を造って、印を隠した。だから僕は君の心に入って探すしかなかった」

 

頭が真っ白になったアンディは、ただ宮の独白を聞くしかなかった。

 

「でも痛くないでしょ。この手紙が痛みをとってくれてるから」

 

宮は左手の人差し指と中指に黒く変色した手紙を挟み、ひらひらと振ってみせた。

 

「これさ、呪符なんだ。これが内臓を抜き出した後も君を生かしておいてくれてる。今、君は魂の状態で天井に浮かんで、僕を見下ろしてるんだよ。まだ完全に身体と魂が分離してないのさ。見つける前に君を殺せば、印はまた消えてしまう。つまり生きているうちに君から印を取り出すことがマストだったからなんだ」

 

宮は頬を膨らませて、鼻から息を吐いた。

 

「この呪符がある限り君は霊界にいけない。成仏できないんだ。ああ、君はアメリカ人だから昇天っていうのかな」

 

血だらけの宮は、くすくすと笑う。

 

「それじゃ可哀想だから、呪符を破棄してあげる。そうすれば君は神に召され、天国へいけるからね」

 

宮の言葉が自分への死の宣告と悟り、アンディは愕然とした。

 

「死にたくない!」

 

「でもさ、こんな状態の身体に戻っても、激痛を感じたうえで、結局死ぬんだよ。だったら楽なまま死んだ方が良いんじゃない?」

 

「まだやりたいことがあるんだ!」

 

「まあ、不運だと思ってあきらめて。僕にも都合があるから、これでお別れだよ、アンディ」

 

「待ってくれ!」

 

宮は呪符を額にあて、再びあの奇妙な呪文を低く唸るようにつぶやいた。

 

「あい、あい、はすたあ、はすたあ」

 

「やめろっ! やめてくれっ! お願いだ! 宮!」

 

アンディの叫びも虚しく、額の前で、呪符は黄色い炎を上げる。
それとともにアンディの身体は透明になっていく。

 

「宮ぁぁっ!」

 

――呪符が燃え尽きつきたとき、アンディという存在は、この世から完全に消え去った。

 

☆☆☆

 

やっと、やっと、でけました。読んでくださった方々に感謝!!

クトゥルフに捧ぐおまーじゅの一編でありました。ではまた!