かつて大阪市都島区の京橋は伏見城から京街道を南下し、

大阪城の城下町へ入る玄関口と位置づけられていた。

同地域にある網島は淀川と寝屋川の合流点で、

元々土砂の堆積地だった土地を宅地用に造成し、

家臣の石田光成や宇喜多秀家の大阪屋敷が建ち並ぶと共に

近松門左衛門作の人形浄瑠璃「心中天の網島」の

舞台にもなった場所でもある。

因みに京街道とは1596年(文禄5年)、

豊臣秀吉が自ら築城した大阪城と伏見城を最短距離で結ぶため

淀川沿いに文禄堤を整備して造成された道路である

明治時代の後半、山口県萩市出身の大阪財界の重鎮である

藤田伝三郎(1841~1912年)は網島の広い敷地に豪華な邸宅を建て、

世間から「網島御殿」、もしくは「あかがね御殿」と称されていたが、

終戦直前の6月に第3回大阪大空襲を受けて焼野原となり、

敷地は戦後に分割され、今は藤田美術館、太閤園、藤田低跡公園、

大阪市公館(ザ・ガーデンオリエンタル・大阪)へと大きく様変わりしている。

現在の大阪市都島区にある京橋駅周辺は人通りが多く、

賑やかな「ビジネス街とディープな下町」と呼ばれているものの、

網島御殿跡地は従来と変わらず閑静な雰囲気を保ち続け、

相対する両面の落差に驚きながら、感動すら覚える地域でもある。

 

JR環状線や東西線、京阪電車本線、大阪メトロ線が乗り入れる

大阪市内屈指のターミナル駅である京橋駅は、

ほぼ同じ場所に設置され、仕事の関係で良く行き来し、

陸橋を隔てビル群が建ち並ぶ大阪ビジネスパークは

完成前からしばしば出入りして調査をしていたが、

京橋駅近くにある網島御殿跡地に関し、

当該場所は勿論、その存在自体すら全く知らない。

今年の2月下旬、タイトル「町歩き、京橋から網島まで」の

地元ウォーキングに参加し総勢二十名足らずで

JR京橋駅で下車し見慣れない東改札を潜り抜ける。

終戦直前の京橋駅空襲に依る犠牲者の慰霊碑や納経堂、

イタリヤの石像の複製「真実の口」に付け加え

繫華街にある居酒屋やサウナのグランシャトーなども見て回り、

昼食は自由選択制として三々五々に別れ、

色んな食事処が集まるコムズガーデンで済ませた。

午後は市街地を離れ網島御殿跡地にある藤田邸跡公園へ向う。

(桜の宮公園の一部で敷地面積は約16000平方㍍)

以前は結婚式場だった「太閤園」を横目で見ながら、

ここは従妹が結婚披露宴を催した場所だと思い出す傍ら、

長期間に亘るコロナ感染の影響で閉館に追い込まれたのかと

工事中の看板を見ながら通り過ごした。

 

 

ガーデンオリエンタルの三角屋根のチャペル

(1959年に竣工した旧大阪市公館)

現在はレストラン&結婚式場となっているが、

元は海外からの来客をもてなす迎賓館だったとか。

 

 

APECなど歴史的な国際会議を開催し、

歴代の総理大臣を初め、国賓級の海外VIPも数多く

来館された「旧大阪市公館」。

大阪の中心地にありながら四千坪の庭園を有し、

どのパーティー会場からも鮮やかな緑が望める。

 

 

庭園の池の畔に咲く豊後梅(中国原産、バラ科サクラ属)

梅の実は果肉が厚く、種が小さいため食用部位が多い。

酸味も少ないため食味が程良く魅力的な園芸品種だとか。

最後は藤田美術館を見学する一行と別れ、

次回は事前にもっと情報を収集し、訪れてみよう思いながら

梅田に向う無料バスに乗り込んだ。

 

(写真撮影は2月28日水曜日、天候は快晴)