一般的に座禅に依る悟りとは内面にある仏性に気付き

心身とも一切の煩悩や執着から解脱すること、と言われている。

一休宗純は後小松天皇の落胤という生い立ちから禅寺で修行を積み

幼少時は咄嗟の機転が利く頭脳明晰な頓知小僧と呼ばれていた。

禁欲生活を強いられても権威や欲得に流されず、

飽くまで精神至上主義を貫き三十歳過ぎに庶民の世界へ飛び込む。

全ての階層を対象に仏教を易しく伝えるため、一蓑一笠で近畿一円を遊説し

世間から蛮行乃至は奇人和尚と揶揄される。

晩年は禅僧らしく悟りの境地に辿り着いたと思いきや、

五十歳も年下の女性と同棲し波瀾万丈な人生を過ごしている。

頓知小僧と奇行和尚との落差を埋めるため、

若い頃のストイックな生活による反動と捉えていた。

(欲望のパイはほぼ一緒で青年期にエネルギーを使い果たせば後年に残らず、

逆に青年期に節制すれば後年にピークが訪れると言う俗説)

それでも晩年の行動と悟りの境地とが符号せずモヤモヤ感が残る。

幼少時から老年期まで周囲の人々から愛される傍ら

大徳寺の住職に就いてからも権力との距離を置くため

山深い酬恩庵で森侍者と暮らし続けたのも事実。

いずれにせよ、

辞世の言葉「一休の禅は一休にしか解らない」が全てを物語り、

その真相は胸中に埋もれ看過するしかない。

 

 

11月下旬頃の良く晴れた秋空の下、

地元ハイキングに参加し総勢17名で阪急梅田から地下街を通り

JR東西線北新地駅で木津行きの快速電車に乗り込み

凡そ50分かけて京田辺駅に着く。

 

北側の駅広場で掃除をする一休さんの銅像がお出迎え。

(幼名なので正確には周建さん)

 

和風建築様式の図書館前を通り過ぎて北上する、

電信柱にカルタを巻き付けた「一休とんちロード」に差し掛かる。

 

 

【上記写真以外のとんちカルタの2例】

へつらわず おごることなく 庶民禅

権威に対し徹底的に対峙し弱者には人の道を分り易く説いた一休、

住居を定めることなく放浪の禅僧を実践した人物。

 

薪村 今に伝える 莚(むしろ)織り

縄を縦糸、藁(わら)を横糸とした莚は敷物や建築材など多く使い道がある。

一休が教えた莚織りは薪村を支えるため昭和中期まで生産されていた。

 

一休さん ひとやすみもせず 米寿まで

当時の平均年齢の倍近い87歳まで長寿して1481年11月21日、

当寺で亡くなり遺骨は此処に葬られているとか。

 

晩秋の雰囲気漂う通称「一休寺」の総門

臨済宗大徳寺派、山号霊瑞山。大応国師が創建し兵火で焼失した元妙勝寺、

一休は凡そ20年以上かけて再興し新たに酬恩庵と名付けている。

 

三本杉へ続く紅葉の参道

三本杉とは一休や蜷川新右衛門、蓮如上人の三人がそれぞれ植樹したとか。

 

本堂(重要文化財)

室町幕府将軍足利義政に依り建立された禅宗様式の仏殿。

 

方丈庭園入口

 

白砂の大海を具現した庭園

方丈の3方の庭園は松花堂昭乗、石山丈山等の合作とか。

 

玄関に飾られていたトンチ小僧の「屏風絵の虎退治」

 

鐘楼(重要文化財)

 

鐘楼をじっと見詰める参拝客

 

一休寺を後にして元来た道を戻り途中で急坂を登り

棚倉孫(たなくらひこ)神社へ立ち寄る。

棚倉とは穀物を収蔵するに当たり、除湿のため床を設けた倉庫。

古来より渡来人による養蚕の盛んな地域で

蚕が生息する倉を崇め神格化したのが神社の興りとされている。

 

本殿の傍にある天を衝くように聳える銀杏の大木、

晩秋を醸し出す黄色が鮮やかだ。

 

時計を確かめる、とっくに昼食タイムは過ぎて13時前。

食事場所の状況については事前に幹事に伝えている。

「飲食店は京田辺駅付近に全く見当たりませんので次駅の同志社前まで

電車で行き学食を利用するしかありません」

このグループは野外での食事を嫌がるので元々弁当持参は想定外だ。

「昼食のためわざわざ電車に一駅乗るのか、

適当な場所が見付かるかも知れん。

私が辺りを見て判断するので任せて呉れないかな?」

「勿論、お任せします、<(_ _)>

 

京田辺市は京都府南部で東側を南北に流れる木津川と

西の生駒山に挟まれ、中心部をJR学研都市線と近鉄京都線が走り

大都市のベッドタウンの性格が強く人口は約74千人とか。

普通駅前には飲食店がありそうなものだが、

やはり駅周辺や道沿いも一切見当たらず

提案通り同志社前で下車し緩やかな坂を登り始めた。

「お~い、誰か足腰が疲れたとゆうてはるで。休憩したらどうや?」

先程駅のホームや車内で休んだのにと思いつつ、

仕方なく同志社女子大前の街路樹を囲う円い木製ベンチに座る。

 

新島記念講堂

同志社大学京田辺キャンパスは総面積79万㎡の広大な敷地に、

1986年理工学部や生命医学部棟などを開校。学舎は風景との調和のため

煉瓦タイルで統一され、学生数は凡そ9千人とか。

門衛所のある正門から暫く歩くと多目的ホールの左側に

日糧館や紫苑館など学食施設が見えて来る。

「色んなメニューがありますので好きな食事を選んで下さい。

それと一時間後、同じ場所に集合しましょう」

館内にある食券自動販売機などを案内した後、

三々五々に別れ学食特有な廉価でボリュームのある食事に

舌鼓を打ちながら空腹を満たす。

食後、メニューと値段を見比べ感心する人も現れ評判は上々。

学食施設を離れキャンパス内の敷地を歩き幹事の案内で

第26代継体天皇の筒城宮(つつきのみや)址の石碑を見学。

本日全てスケジュールをこなし、電車に揺られ北新地駅に戻り

幹事の解散挨拶を聞きながら

ハイキングの企画担当も楽ではないと一息吐く、やれやれ。

 

(写真撮影は11月22日火曜日)