蜘蛛の糸について勝手に考える①


 今回は蜘蛛の糸における御釈迦様の存在について自分なりに考えたことを話したいと思います。(※勝手な意見、経験が含まれているのでご容赦ください)



​本文における御釈迦様


 話の内容をざっと説明しますと、

①地獄の底にいるカンダタを蓮池のふちを立って見ていた

②カンダタが蜘蛛を殺さずに助けてやったのを思い出す

③たまたまあった蜘蛛の糸を使って助けてやりたいと思う


サムネイル

出来るなら、この男を地獄から救い出してやろう

④カンダタのエゴにより再びカンダタは地獄に

⑤カンダタの一部始終を悲しそうに見ていた



サムネイル

なぜゆえ…(ぴえん🥺)




​自分の経験から勝手に考える御釈迦様の役割


 「蜘蛛の糸」はやはりどうしてもカンダタに目が入ってしまいがちですが、自分は御釈迦様に注目してみました。

結論から言うと、御釈迦様の視点は自分自身の中に必要なものと勝手に考えております

少なくとも、最後までカンダタは自分のエゴに気づかず、と言うよりかは自分の根本的な性格を直さずに地獄に落ちていった気がします。




サムネイル

 こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。

 自分しか見えてないんだと思います結局。自分も確かにあると思いますこういう一面。小さな事で言ったら、美味しそうなものがあったら独り占めしたい!、大きな事で言ったら、民族間の資源などの対立に繋がると思います。結局何かを独り占めしようとしても幸福は感じられない。

 俺はそんな奴にはならん!

と思う人も多いと思います。自分もそうです。ただ何かに追い詰められたとき、どこか心に余裕がないとき、自分しか見えなくなるのが、人間ではないでしょうか。(まだ経験の少ない若僧が何言ってんだと自分でも思いますが)自分の浪人生活はそんな感じでした。自分がどんどん追い詰められて、挙げ句の果てに家族まで困らせてしまう、何もわからずにどんどん巻き込んでしまう。

 そういう場面に遭遇したとき、必要なのが

御釈迦様の視点なのではないでしょうか。自分がエゴに陥っていないか、自分にわからせる存在、それが必要な気がしてきました。自分が追い詰められてどんどん自分が不利な状況になっている場面を悲しそうに見つめられる視点が必要だと思います。(なかなか難し〜〜〜いえーん




​ただの勝手な自分の意見なので、何かあればぜひ批判でもなんでも良いのでコメントして下さい!