6歳から自決したかった。
その理由を書いていこう。
まず、当時、誰かから、次のように教わった。
「他人を傷つけてはいけません。」
「他人を殺したりしては、いけません。」
「相手の人が、不愉快になるようなことは、するのを止めましょう」
「動物も、いじめたりしては、いけません。」
「命あるものは、みんな大切です。大事にしましょう。」
実は、これらだけで、十分な矛盾をはらんでいる。
当時の私ですら、それに、すぐ気づいた。
まず、
自分が生きていくためには、
食べ物を食べないといけない。
牛や豚や鶏などの動物だけでなく、
米や野菜などの植物も、毎日、「殺して」食べている。
前者の動物たちには、ほぼ人間と同じような感情があり、
それでも、私たちは、殺して食べている。
後者の植物にも、感情に近いものがある、とする学説もある。
いずれにしても、私たちは、他の生物を、殺して食べている。
私たちは、命あるものを大切に守っている、のではなく、
毎日、自分が生きるために、殺して、食べている。
ちょっと、勉強をすると、次のこともわかる。
小学校の理科の授業で、微生物(細菌やウィルス)、というのが、
空気中にも、机の上にも、自分の皮膚にも、
たくさん住んでいることを知る。
つまり、自分が生きるために、息をすっただけで、
空気中の微生物を吸い込む。
すると、肺にいる白血球などが、微生物を殺しまくり、
その結果、安全に、私たちは空気中から酸素を得て、
日々、生きていくことができる。
つまり、私たちは、息を吸っているだけで、
「罪なる存在」なのである。
まわりの生物を殺さなければ、生きられない存在なのである。
(ちなみに、もしも、上記のことをするのがいやなら、
自分が生きるのを、止めるしかない。)
人間同士の中でも、いろいろな矛盾がある。
例えば、受験戦争、というものがある。
単純に、東大(東京大学)などの良い大学に入ったほうが、
高収入になり、幸せな人生を送れる可能性が高い、と仮定する。
そうであるならば、本当に他人の幸せを思いやれるならば、
自分は、良い大学を受験せず、そこに合格しないほうが良い。
そうそれば、少なくとも一人、幸せになれる可能性のある人が
増えるのだから。
と、いうわけで、
自分が生きていくためには、他の生物を毎日殺さなければならないし、
自分が幸せになる確率を増やすためには、
他の人間が幸せになる確率を減らさねばならない。
ともかく、こうして、私は、きづいた。
6歳ごろまでに、周りの人が、私に教えてきたことは、
「全て、ウソであった」ということに。
まあ、そこまで言わないにしても、
「矛盾している」ことは、間違いなく、
もしくは、それらを教えている人々(大人)の方が、
矛盾に気づかないほど「愚かである」(または深く考えていない)可能性もあるし、
自分や子供や学校の生徒に、
とりあえず「普通の人間」になってもらおうと、
上記のような「一般的なきれいごと」を教えることになっている、
ともとれる。
しかし、まあ、子供のほうも、馬鹿ではないため、
冷静に、理論的な考え方ができる子は、次のように考えるはずだ。
「矛盾している。」
「言っていることがおかしい。」
「大人のいうことは、間違っている。」
「ウソをついている。」
「だから、言うことをきく必要など、ない。」
「真実は、別にある。」
「それを知りたい。」
で、子供は、(あるいは大人になってからも)
自力で、真実を探すことになる。
いろいろ探してみると、どうやら、真実は、大筋で、2つあることがわかる。
2つだけが、この世の、真実である。
逆に言えば、それ以外のことは、真実ではないので、信じる必要はない。
その1.
人は、必ず、死ぬ、ということ。
実際は、(今後このブログでも書いてゆくが)将来、科学が発展すれば、
人が必ず死ぬ、ということは、防げる可能性がある。
だが、命題が煩雑になるので、今日は書かず、後日、記載する。
また、この、必ず死ぬ、ということは、次のこととセットになっている。
人は、いきなり死ぬのではなく、
通常(日本人の平均で)、7年程度、寝たきりの状態などになり、
他人からの介護を受けなければ生きられない状態になってから、
数年後に、ようやく死亡する。
その間、癌での疼痛、狭心症での胸痛、脳梗塞による身体機能低下、
家族に介護をさせ続ける罪悪感などの
身体的・精神的な苦痛を大量に感じ続けることになる。
まとめると、
簡単にいえば、人は、必ず死に、かつ、その前の数年間、かなり苦しむ、
ということ。
だから、逆にいえば、交通事故等で一撃で死ねた人は、
むしろ幸せである。
で、ここで書いてしまうが、もしも、
死ぬ前の、数年間の苦しみ続ける状態を、感じたくないのであれば、
それは、一つしかない。
そういう状態になったら、もしくは、そういう状態になる前に、
自分で自決するしかない、と。
で、残念ながら、最初の1回目の脳梗塞で、半身不随になってしまい、
自力で自決もできない状態になってしまう可能性もある。
このため、これを防ぐためには、方法は一つしかない。
つまり、かなり早めの段階で、自決をする、という方法である。
極端に言えば、
「今すぐ、自決をする」しか、ないのである。
だって、1秒後に、脳梗塞がおきる可能性もあるからだ。
(ちなみに、若年者でも、脳動脈瘤や脳動静脈奇形で、
脳卒中になることがある。)
6歳のときから、50歳を過ぎる今まで、そして今でも、
私は、そう考えている。
その2.
自分や他人が「大事にすべきだと考えている人や物の範囲」が流動的であること。
人が、どこまでを「大切にすべきだ」と考えるか、それによって
価値観が変動する(善悪の判断が変わる)、ということを説明する。
1.自分さえ良ければ他人はどうでもいい
2.自分と家族と恋人だけが大事
3.自分と友達・知人までが大事
4.自分の地域(市町村や都道府県など)まで。
5.自分の国、日本まで
6.自分と同じ人間。世界の人間すべて(まで)。
7.自分と同じ生物すべて。
8.自分と同じ宇宙に在る物質すべて
自分が「大切にすべきだ」と思う、人や物の範囲を、
どこまで広げるか、または、どこまで、せばめるか、
によって、物事の善悪の判断は変わり、
その人の生き方が決まってゆく。
ひいては、それらによって、
「自分は幸せだ」と思える精神的環境(判断基準の背景)が決まってゆく。
具体的を書いてみよう。
やや極端な例だが、わかりやすいものを一つ。
(上記の)6番目の「人類が大事(それ以外は大事じゃない)」
という価値基準をとれば、
食べものを食べて、他の生物を殺しまくってもかまわない、となる。
しかし、7の他の生物も自分と同じように大切だと考えるならば、
相手を殺して食べることなど、到底できないので、
食べるのをやめ、自分は死ぬことになる、ということである。
あるいは、
現在の地球にいる70億人の人間は、
地球全体に住む生物(全体のバランス)から見て、多すぎるので、
人間の数は減らしたほうがよいと、考えられるので、
(環境学者がいうところの地球の人類の適正人口である)
20億人程度まで、人間を減らしたほうがよい、との意見もある。
ちなみに、
短絡的に、核戦争やウィルス兵器で殺しまくる方法もあるし、
政治的に、世界的な人口削減条約、などを成立させ、
長期的に世界人口を減らしていく方法もあるが、
いずれの方法も、いろいろな理由で、実現が難しい。
また、後者(7の生物全てが大事)というスタンスをとる場合、
そこから発展して生まれた考えによっては、
自決をすることや、他人を殺すことは、
「善である」、「正しいことである」と判断される可能性が高い。
(人間の数が、地球の適正人口に近づくので。)
で、上記した、8つの「大事にすべきだとする範囲」については、
どれかを正しいとする、理論的な根拠はないため、
人によって異なり、国や宗教によって、大きく異なり、
また、同じ人物であっても、その時の精神状態によって、
変化してゆく。
わかりやすくいえば、
「衣食満ち足りて、礼節きわまる」とい格言があるように、
お金があり、精神的に余裕がある状態のときは、
6の人類みな大切や、7の他の生物まで大事、
というスタンスにやりやすいし、
お金がない人、精神的に余裕がない人の場合は、
1の自分だけよければよい、というスタンスになりやすい、
ということである。
この、「大事にすべきもの範囲」を決めることによって、
ものごとの善悪、正しいとされることが決まってしまうにも関わらず、
その「大事にすべきものの範囲」は、流動的であり、
人や国、民族や宗教によって異なり、かつ、
同じ人間でも、その時の精神状態によって、どんどん変わってしまうこと、
が世の中の本質である。
つまり、善悪を決める基準となる「大事にすべきものの範囲」が
非常に流動的であるため、事実上、
(一般の人間社会で「主張」されている)
善悪、正しいことや悪いこと、その基準などは、
いずれも存在しない、と言ってよい。
以上を、まとめると、世の中の真実は、2つだけ。
1.人は死ぬ。その前の数年間、苦しむことが多い。
2.「大事にすべきものの範囲」が流動的なため善悪など存在しない
さて、これらの真実を、なぜ、大人は子供に教えないのであろうか?
理由は、簡単である。
「普通」に考えて、人間の幸せとは、以下のようなものだと、
考えられているからである。
「生涯、人間の社会の中で生きていき、
主に経済的に成功し(必要十分なお金があり)、
法律などに触れて犯罪者とならず、
他人から好かれ易い人格となり、友達などができ、
病気もなく、長い寿命を生きること」
おそらく、大筋で、上記のような「幻想的な幸せ」を
漠然と人々は持っているために、大人は子供たちに、
「真実」を教えないのであろう、と思う。
(上記の「幻想社会」に、うまく入り込めるような
社会的に適正な人間に育てようというのであろう。)
ま、ある意味では、正しいのかもしれない。
(というか、そういう考え方も、あってよいとは、思う。)
このほうが、上記の「幻想的な幸せ」を享受しようとする、
ある特定の人々のグループの中では、
「幸せ」に生きていけると思われるからだ。
しかしながら、上記のような「幻想的な幸せ」を
享受しようとせず、「真実を知りたい」と思う人も、
世の中には、いる。
子供でも、大人でも、いる。
そうした人々は、
「綺麗ごとでとり作られた、うわべだけの優しいウソ」にすぐ気づき、
矛盾を指摘する。
そうして、反発するのである。大人はおかしい、と。
さて、
ここで、幻想的な幸せ、を享受する生き方と、
真実を得る生き方の、両方を、掲載する。
まず、前者は(再掲)
「生涯、人間の社会の中で生きていき、
主に経済的に成功し(必要十分なお金があり)、
法律などに触れて犯罪者とならず、
他人から好かれ易い人格となり、友達などができ、
病気もなく、長い寿命を生きること」
後者は、
「生涯、人間の社会の中で生きることに、こだわらず、
お金がなくても生活保護制度等を使用すればよいと考え、
法律に触れても有罪にならなければよいと考え、
他人と交流することをわずらわしいと思い、友達を必要とせず、
病気になる前に、自決することも選択の一つとする」
ま、こうした考え方もある、ということである。
「幻想的な考え」で生きていく方法もあるが、
その対極にある考え方で、生きてゆく(または死んでゆく)
考え方もある。
重要なのは、「どちらも間違いではない」
ということである。
(もちろん、上記2つの対極的考え方だけでなく、
それ以外の無数の考え方があり、その全てが、
間違いではない、ということである。)
6歳だった、当時の私のために、さらに、一言、付け加えるのならば、
上記、展開してきた議論は、すべて、
6歳前後の子供にも、丁寧に説明すれば、理解可能であり、
しかして、
6歳にして、本当の真実を知ることは、可能であったろう、と思う。
その結果、仮に、その後、その子が、
自決をしたり、犯罪行為をおかしたり、
(人間社会から見ると)反倫理的な行動をしたりするような、
子供に育ったとしても、
私は、別に、かまわないと思っている。
いや、次のように思っていた。当時の私は。
まず、なによりも、真実が知りたかった。
それが、自分にとって悲しいことでも、
まわりの人々の、幸せな幻想を壊すことであっても、
どんなことが起こっても、
まず、真実が知りたかった。
ウソは、いやだった。
ウソをつく、大人のいうことを聞くなど、絶対にいやだった。
わけのわからない矛盾ばかりをいって、
けむにまくのが、ゆるせなかった。
真実は、一つ。
いや、二つ。
一つは、人は必ず死ぬこと。
もう一つは、善悪など、この世にないこと。
それが、全てだったのだ。