この記事の続きです。
今日の記事は、ちょっと気が重くなるかもしれませんので、苦手な方はスルーしてください
この歳になって、何かを誰かのせいにするつもりはありませんが、やはり育ってきた環境は大きいと思います。
私は、父方の祖父母、両親、妹と一緒に暮らしていました。
祖父母と両親の折り合いが悪く、毎日怒鳴り合う声が聞こえるような家でした。
それだけならまだしも、祖父と祖母、父と母、その他の組み合わせでも顔を合わせると喧嘩になり、私は毎日ビクビクしていました。
大人がみんなストレスを抱えていたので、その矛先は子ども、特に長女である私に向かっていました。
いつ怒鳴られるか、いつ喧嘩が始まるのかと、毎日怯えていました。
母が荷物をまとめている姿も何度も見ました。私はいつしか両親の離婚を望むようになっていました。離婚して母と一緒にこの家を出れば、こんな毎日から解放される。そう思っていました。
でも母は本気で離婚する勇気はありませんでした。「本気じゃないなら、そんな事しなければいいのに」と、同じ事を繰り返す母を冷めた目で見ていた記憶があります。
怒鳴り声が響き、母の愚痴を聞かされ、大人の顔色を見ながら過ごす毎日。喧嘩の仲裁に入ったりもしました
私が何か気に入らないことを言おうものなら怒鳴りつ けられ 、それが嫌で何も喋らなければ「何を考えているのか分からない」と怒られ、それならと自分の気持ちや意見を言えば「それはおかしい」「そんなこと、あんたに出来るわけないでしょ」と批判される
明らかに妹が悪くて喧嘩になっても、理由も聞かず「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と叱られていました。
長女だからという理由だけで制限されたことも沢山ありました。
さらに妹は子どもの頃小児喘息で、しょっちゅう通院や入院をしており、両親、特に母親は妹にかかりきりになっていました。
深夜に発作を起こすことが多く、ある夜、目を覚ますと部屋に誰もいないことがありました。
頭では分かっているんです。
家には祖父母もいるし、起こすのは可哀想だから私には声をかけず病院に行ったんだな、って。
でも、目を覚ましたときに誰もいなかった、あの淋しさ。
思い出すと胸がギュッと苦しくなります。
さらに、小学校4、5年生のときの担任の先生は、無口なタイプの子どもが苦手だったらしく、ある日、私ともう1人の男の子を名指しし、クラス全員の前で「こういう大人しい人間は、何を考えているのか分からん」と言いました。
何がきっかけだったのかは、全く覚えていませんが、とてもショックを受けたことだけは覚えています
私はやっぱりダメな子なんだ。
家にも学校にも居場所がない。
私は何のために生きているんだろう。
なんで生まれてきたんだろう。
いつまで生きなくちゃいけないんだろう。
こんな毎日がいつまで続くんだろう。
夜、眠る前が一番幸せでした。
眠っている間は何も聞かなくていいし、何も考えなくていい。
そして眠る前には、いつも願っていました。
「朝が来ませんように」
「ずっと目が覚めませんように」
って。
でもやっぱり朝は来て、私の1日は始まりました。
どこか遠くへ行きたいな。
いつもそう思っていました。
書いていて、ちょっと涙が出そうになりました
子どもの頃の私を、ぎゅ~っと抱きしめて「よく我慢したね」って言ってあげたい。そんな気持ちになりました
親には親の事情があったんでしょうし、それが精一杯だったんでしょう。
愛情がなかったとも思っていません。
でも、寂しかった。
私の味方になってほしかった。
応援してほしかった。
信じてほしかった。
笑っていてほしかった。
甘えたかった。
話を聞いてほしかった。
自由にさせてほしかった。
ただただ安心したかった。
すみません、長々と
こういった事情もあり、私は本当に子どもらしくない子どもでした。
あまり喋らず、あまり笑わず。
子どもなのに円形脱毛症になったこともありました
最近は少し抵抗がなくなりましたが、とにかく自分の気持ちを口にすることが苦手でした
苦手というより怖かったんです、相手の反応が。
いつもビクビクしていて、人間関係のトラブルも沢山ありました
私、こういう家庭の状況や先生の発言を、今まで誰にも話したことがないんです。
それは、とても恥ずかしくて情けないことだと思っていたから。
読んでいただいた方には申し訳ありませんが、こういう場で吐き出すことができてスッキリしました
この時代に生まれてよかったです
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました