この本が映画化されたのは、今から10年前の2006年のことでした。
 私はその映画が気になりつつ、今でもそうですが原作を読んでから映像化されたものを観たいと思っていました。
 「いつか読もう」
 そう思っているうちに、あっという間に10年が経っていたことに愕然としています。


 内容は、80分しか記憶が持たない元天才数学者と、18歳で子供を身ごもり、その子をひとりで育てている若い家政婦、そしてその子供とのお話です。
 
 「彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ルートと呼んだ。息子の頭のてっぺんが、ルート記号のように平らだったからだ。」(5頁)

 この物語は、上記の一文から始まります。
 何てことはない文章だが、なんだか不思議な感じがありました。

 「家政婦として通いはじめてからしばらく後、何を喋っていいか混乱した時、言葉の代わりに数字を持ち出すのが博士の癖なのだと判明した。」(14頁)

 「だからと言って、ただ単に子供のご機嫌を取っていたのではなかった。テーブルに肘をついたり、食器をぶつけたり、ルートがなにかマナー違反をすると(博士自身が普段やっていることばかりだったが)、さりげなく注意もした。」(47頁)

 ここまで読んで、なぜ私が不思議に思っていたのか答えが見つかりました。
 すべて現在完了形で地の文が書かれ、()のなかに登場人物の気持ちを入れる。
 この表現は、イギリス文学などでよく見られる表現です!
 (私は、外国の文学も大好きです!)
 だから、日本人の文章を読んでいるのに、なんだか翻訳された外国の文章を読んでいるような錯覚を覚えていたのでした。

 さらにさらに、小川さんの言葉のチョイスが素敵です!

 「その時、生まれて初めて体験する、ある不思議な瞬間が訪れた。無惨に踏み荒らされた砂漠に、一陣の風が吹き抜け、目の前に一本の真っさらな道が現われた。道の先には光がともり、私を導いていた。その中へ踏み込み、身体を浸してみないではいられない気持ちにさせる光だった。今自分は、閃きという名の祝福を受けているのだと分かった。」(86頁)

 「閃き」という体験を、まるで詩のようなに壮大に表現しています。
 読んでいると、とてもキラキラして爽やかな空気が通りすぎていくようです。

 「正解を得たときに感じるのは、喜びや解放ではなく、静けさなのだった。あるべきものがあるべき場所に納まり、一切手を加えたり、削ったりする余地などなく、昔からずっと変わらずそうであったかのような、そしてこれからも永遠にそうであり続ける確信に満ちた状態。博士はそれを愛していた。」(102頁)

 この本のあとがきでも、数学者の藤原正彦さんがおっしゃるように、作者の小川さん自身が話しているかのように感じる文が多々あります。
 物語の主人公(視点)である「家政婦」は実は小川さん自身であって、実際にこの数学者も実在していて、その体験談を書いているのではないかと錯覚してしまうぐらい、リアルに書かれています。

 物語の終盤では、博士の記憶はほとんど更新されません。
 1分前の記憶もなくなってしまうのです。
 それでも、博士は幸せだったと思います。
 人と人との繋がりが、その人の世界を変えてくれることを思い出させてくれます。
 例え博士の記憶に家政婦とルートとの思い出が残されていなくても、家政婦とルートのなかに思い出があれば、それは事実として存在するのだと思います。

 今回は図書館で出会いましたが、後日買いにいってこようと思います。


 この本が、誰かにとっての大切な1冊になりますように☆ミ
 

 



博士の愛した数式 (新潮文庫)