皆さん、こんにちは。

 

ラスベガス歴史研究家のジャスティンです。


2017年10月1日。

 

あの日、ラスベガスの夜空を切り裂いたのは、華やかな噴水ショーの音でも、カジノのジャックポットを告げる電子音でもありませんでした。

 

それは、乾燥した砂漠の空気に響き渡る、冷酷で機械的な「連射音」でした。
 

現場となったのは、ストリップ通りの南端にそびえ立つ黄金の巨塔、マンダレイ・ベイ・リゾート・アンド・カジノ。

 

 

アメリカ史上最悪の銃乱射事件として記憶されるこの惨劇は、単なる一人の狂人の凶行ではありませんでした。

 

それは、21世紀の私たちが絶対的な信頼を寄せてきた「テクノロジーによる安全」という神話が、音を立てて崩れ去った瞬間だったのです。
 

ラスベガスという街は、ある意味で世界最大の「実験場」です。

 

そこは、数千台の監視カメラが24時間休まずに瞬きをし、AIが客の歩幅から視線の動きまでをデータ化する、世界で最も「管理された非日常を提供する空間です。

 

いわば、街全体が巨大なデータセンターであり、高度な予測アルゴリズムによって秩序が保たれているはずの場所でした。


しかし、あの日、テクノロジーは沈黙しました。

 

ITは「すべてを見ている」はずだったのに、なぜ目の前の惨劇を指をくわえて見ていたのか。

 

なぜ、10分間におよぶ「空白の虐殺」を許してしまったのか。

 

なぜ、そんなにも時間がかかってしまったのか?


そこには、現代文明が直視を避けてきた、あまりに深い断層が横たわっていました。

2000年代以降、ITとデータ分析は、私たちの社会を「最適化」してきました。

 

顔認識システムは指名手配犯を瞬時に見つけ出し、行動ログの異常検知はクレジットカードの不正利用を未然に防ぎます。

 

カジノはその恩恵を最も受けてきた場所です。

 

イカサマ師の挙動、酔っ払いのトラブル、不審者の徘徊。

 

それらはすべて「予測可能なリスク」として、あらかじめシステムにインプットされています。


しかし、マンダレイ・ベイ事件の犯人、スティーブン・パドックがとった行動は、その網の目から完全に抜け落ちていました。

 

 

彼は、裕福な不動産投資家であり、カジノにとっては何のトラブルも起こさない「優良なハイローラー(高額賭博客)」でした。

 

彼はチェックインから事件発生までの数日間、丁寧な態度でホテルスタッフに接し、ルームサービスを頼み、静かにギャンブルに興じていました。

 

 

 

 

ITが認識できるのは、過去のデータから導き出される「想定内の異常」だけです。

 

 「怒鳴り声を上げる男」はシステムに検知されます。

 

しかし、「10個以上の重いスーツケース(中身は銃器)を数日に分けて部屋に運び込む、物静かな紳士」は、システムにとって単なる「長期滞在のVIP」でしかありませんでした。


ここに、現代の監視社会が抱える最大の弱点があります。

 

ITは、行為の「外側」を完璧に記録しますが、その「内側」にある動機や意志までは読み取れません。

 

システムは、彼が部屋の窓をハンマーで割り、眼下の群衆に向けて銃口を向けるその瞬間まで、彼を「正常なデータの一部」として処理し続けていたのです。

ラスベガスの歴史を紐解くと、この街がいかに「秩序」に対して執着してきたかが分かります。

 

かつてこの街を支配していたのは、モブ(マフィア)たちでした。

 

バグジー・シーゲルがフラミンゴ・ホテルを建てて以来、ラスベガスは暴力と隣り合わせの街でした。

 


しかし、当時の暴力には、残酷なまでの「合理性」がありました。 

 

裏切り者への制裁、縄張り争いの決着、あるいは組織の利益。

 

マフィアにとって、暴力はあくまで「ビジネスの手段」でした。

 

彼らは無差別な殺戮を最も嫌いました。

 

なぜなら、街が恐怖に包まれて観光客が来なくなれば、自分たちの稼ぎ口がなくなるからです。
 

モブが支配していた時代のラスベガスには、皮肉にも「暗黙のルール」という名の安全保障が存在していました。

 

暴力には理由があり、ターゲットには意味があったのです。
 

ところが、マンダレイ・ベイ事件には、その「意味」が決定的に欠落しています。

 

時代の変化を感じざる得ません。 

 

犯人のスティーブン・パドックには、宗教的な背景も、政治的な信条も、特定の組織への恨みもありませんでした。

 

遺書すら残さず、彼はただ「事象」として惨劇を引き起こし、自ら命を絶ちました。

 

現代社会が直面しているのは、この「意味を拒否する暴力」です。

 

 1999年のコロンバイン高校銃乱射事件の時、私たちはまだ「いじめ」や「孤立」という理由を見つけ出し、納得しようとすることができました。

 

 

しかし、パドックが突きつけたのは、動機なき、主張なき、純粋な破壊でした。

 

マフィアの暴力が「物語」であったとするならば、現代のランページ事件(無差別乱射事件)は「システムのバグ」に近い。

 

私たちは、理由のない悪意に直面したとき、それをどう処理すればいいのか分からず、ただ凍りつくしかないのです。


事件の翌日、私はストリップを歩きました。

 

世界で最も騒がしいはずの街が、見たこともないような静寂に包まれていました。

 

ネオンは輝いているのに、そこに血が通っていないような、異様な光景です。

 

赤十字の献血センターに向かうと、そこには見渡す限りの長い列ができていました。

 

観光客、ホテルの従業員、カジノのディーラー、地元住民。

 

人種も職業もバラバラな人々が、数時間も、黙ったまま並んでいました。 

 

そこにあったのは、怒りではありません。

 

自分たちが信じていた「予測可能で安全な世界」が、突如として砂上の楼閣であったことを思い知らされた、深いショックと虚無感でした。

 

まるで、9/11同時多発テロが起きた翌日のようでした。

 

サバイバーの方々にも話を伺いました。 

 

ある女性は、今でも花火の音を聞くと、体が勝手に地面に伏せてしまうと言います。

 

彼女が語った中で最も印象的だったのは、「どこから撃たれているのか、最後まで分からなかった」という言葉でした。

 

マンダレイ・ベイの32階。

 

 

高所から、見えない死神によって命が摘み取られていく。

 

現代のテクノロジーが提供する「全知全能感」は、あの10分間、何の役にも立ちませんでした。

 

スマートフォンでSNSを確認しても、そこにあるのは断片的な悲鳴と誤情報だけで、目の前の銃弾を止めるコードは一行も存在しなかったのです。

事件後、私はある独立系ドキュメンタリーの上映会に参加する機会を得ました。

 

そこでは、公式の報告書では触れられない「時間の空白」について議論されていました。

 

事件発生の数分前、一人の警備員がパドックの部屋付近に近づき、足を撃たれていました。

 

なぜ、その情報が即座に共有されなかったのか。

 

警察の突入までに、なぜこれほどの時間を要したのか。

 

現在、その映像や詳細な議論の多くは、表舞台から姿を消しています。 

 

これは陰謀論を唱えたいわけではありません。

 

重要なのは、「完全に解決された過去」として片付けるには、あまりに多くの疑問が残りすぎているという事実です。

 

テクノロジーは「透明性」を約束しましたが、実際には都合の悪いデータを「ノイズ」として処理し、見えなくすることも得意です。

 

私たちが目にしている「真実」は、管理しやすいようにパッケージ化された情報の断片に過ぎないのではないか。

 

そんな疑念が、今もラスベガスの砂漠の風の中に漂っています。


アメリカにおける近代的なランページ事件のルーツを辿ると、1949年にニュージャージー州で起きた「死の散歩」に突き当たります。

 

それ以前、理由なき無差別殺人は歴史上極めて稀な現象でした。

 

それがなぜ、21世紀の今、加速しているのか。 

 

それは私たちの精神構造が、テクノロジーの進化に置いていかれているからではないでしょうか

 

私たちはITによって、世界中の誰とでも繋がれるようになりました。

 

しかし、その一方で、かつて地域コミュニティや家族が担っていた「精神的なセーフティネット」は消失しました。

 

パドックのような人間が、どれほどの資産を持ち、どれほど完璧な行動ログを残していようとも、彼の内面にある「空虚」や「意味の喪失」は、ビットやバイトに変換されることはありません。

 

映画「マトリックス」の中で、仮想現実に生きる人々は「見せられた世界」を現実だと信じ込んでいます。

 

 

プラトンの「洞窟の比喩」も同様です

 

 

洞窟の壁に映る影だけを見て、それを真実だと思い込む囚人たち。 

 

今の私たちは、監視カメラの映像や、SNSのタイムライン、ビッグデータによる予測という「影」を見て、世界をコントロールできていると錯覚しているだけではないでしょうか

 

事件当日、パドックが部屋の窓を割ったその瞬間、彼はその「影の世界」を物理的に破壊しました。

 

そして、むき出しの、理由なき、救いのない「現実」を私たちに突きつけたのです。

事件後、ラスベガスのセキュリティは劇的に強化されました。 

 

ホテルの入り口には隠し金属探知機が導入され、AIによる不審挙動の検知精度はさらに向上しました。

 

ストリップの歩道には車両突入防止用のボラードが並び、街はより一層、堅牢な城塞へと姿を変えています。

 

しかし、これで私たちは「安全」になったのでしょうか?

 

マンダレイ・ベイ事件が私たちに突きつけたのは、「セキュリティの甘さ」というレベルの問題ではありません。

 

それは、「人間は、テクノロジーという管理システムの外側でどこまで信頼関係を保っていけるのでしょうか?」という問いです。

 

どれほどAIが進化し、すべての街角にカメラが設置されても、一人の人間の心の中に芽生えた「暗黒の意志」を事前に消し去ることはできません。

 

自由と引き換えに管理を受け入れるのか、あるいは管理できない恐怖を抱えたまま自由を謳歌するのか。

 

21世紀の私たちは、この極めて困難な二択を迫られています。

 

ラスベガスの黄金色の砂漠に沈む夕日を見ていると、時折あの10分間の静寂を思い出します。

 

テクノロジーが沈黙し、ただ人間の業だけが剥き出しになったあの時間を。 

 

あの日、犠牲になった方々の命を無駄にしないためにも、私たちは「システム」にすべてを委ねるのではなく、自分自身の精神性と、隣人の孤独に、もっと目を向けるべきではないでしょうか。

 

マンダレイ・ベイの壁に刻まれた銃痕は修復されましたが、私たちが突きつけられた問いに、まだ答えは出ていません。