自分軸
心の声
従いたくない、支配されたくない、自由にさせて欲しい、窮屈、ヒエラルキーの一番下、嫌われたくない、好かれたい、この人の言うこと聞けば間違いない、この人の為に動けばなんとかなる、誰かの為に
相反する様々な思いが心の中でぶつかり合い、自分の意見を飲み込み他者の意見に賛同した仮面を被り言われるがまま指示通り生きてしまう。なのでいつも指示待ちなのだ。
なぜ指示待ち?
言われるがままに動いているけれど本心では「支配されたくない」があり、それなのに「言われた通りに動かないと成果も評価も賞賛も受けられない」と思い込んでるので行動さえも他人任せになってしまう。その結果が招くのは他者からの非難に満ちた「指示がないと動かないよね」との指摘と嫌われるという「他者から好かれたい」「他者から嫌われたくない」の真逆の結果を招いてしまう。
自分は悪くない
他人軸の一番の問題は何か問題が起きた時に責任転換が起こってしまうこと。起こった事象全てに対し「◯◯が言った通りにやったら失敗し損害出た。◯◯のせいだ!◯◯が悪い!」と他者を責め立て他者に責任転嫁してしまうこと
例えば…部下が上司の指示通り動き職場内で大損害を出してしまった時、上司は部下を責め立て、部下は上司を責め立て、上司の上司までもが「◯◯が出した部下への指示が悪い」と責任転嫁の矛先が指示を出した人に向けられ一斉攻撃が起こってしまう。
企業内(職場内)でよくある問題なのだ。
責任転嫁
責任転嫁が起こる一番の理由は
自分の意思ではないから
後にも先にもこの言葉に尽きてしまう。自分の意思ではなく他人の指示任せでしか行動せずマニュアル通りにしか動けないから何か問題が起こる度に◯◯が悪いと他者批判し不平不満が生まれ口を開けば愚痴三昧になるのだ
自己責任
自由とセットのような抱き合わせの言葉である自己責任だが、自身の身を持って起こした現象は全て自己責任なのだ。誰が言ったとか◯◯の指示とかは関係なく全て自己責任なのだ。
なぜなら結果は全て自身の行動から生まれるから。
「誰が何を言ったか?」ではなく、その言葉を聞いた時「自分はどう思ったのか?」なのだ。
例えば「仕事して下さい」と言われた時、自分の気持ちの中に「仕事したくない」の感情があったとするならば自分の気持ちに従い仕事に行かなければ良いだけの話なのだ。仕事したくない感情を無視し「お金の為に」と思い仕事を行うと確かに「お金は得られる」しかし気持ちの根底に「仕事したくない」があるので仕事に対しての責任までもが他人任せになってしまい仕事上で失敗をした際の責任が同じ職場の誰かに責任転嫁してしまうのだ。
そこから生まれるのは不平不満に他ならない
負のループの始まりなのだ
自由意思のはずなのに…
他者の強い言葉に支配され、相手の指示通り動かないといけないと思う心が自由意志を奪い相手に従う心を生み他人任せな行動となってしまうのだが、実際問題「嫌だけどやる」を選択したのは自分自身なのである。「嫌だからやらない」の選択も選べるのに他人軸だとどうしても無意識に他者に支配されてしまい言動全て他人軸になってしまうのです。
イエスマンの時代は終わった
例えば現在がまだ昭和の高度成長期で日本のバブル期であれば上に従うイエスマンが潤う時代だったと思う。それは良いでも悪いでももなく長いものに巻かれてさえいれば上から好かれ一気に上がれるシステムが作られていたからだ。
その中で異論反論を申し出る者が居たならば摘み出され、捻り潰される時代だった。
だからこそ根付いた他人軸精神なのだが時代は変わり現代は昭和→平成→令和になったのだ。
自分軸で生きる時代
昭和の高度成長期とは真逆な時代といえる現代に求められるのは自由奔放に個性を出し個の色で光り輝く人間にスポットライトが当たる時代になったのだ。
他人軸vs自分軸
時代の移り変わりの中で起こる他人軸vs自分軸との戦い
集団の中で違う行動をする人間を叩く個人イジメは現代でも重大な問題であるが、ではなぜ叩くのか?
異なる言動をする個人が目立ち他人軸の方達をイラつかせるからに他ならない。無意識下の集団心理なのだと思う。
それほどまでに他人軸で生きる人間が多いことを物語っているとも言えるのだ。
出る杭は打たれる
「出る杭は打たれる」ということわざの意味は、才能や手腕があって頭角をあらわす者や、さし出たことをする者は、とかく他から憎まれたり、人から非難されたりするということである。
自分軸で生きる人間は正に「出る杭」だから打たれるのだ。
心理的に姿形が同じ物は均等均一に並べたいのにその中でひとつだけ異彩を放つものがあったら、それは別物として取り除き廃棄しようとする心理に駆られてしまうのではないだろうか?
もしくは「なんだコレは⁉️」と手に取りマジマジと四方八方からそのものを覗き観るのでは無いだろうか?
それほどまでに自分軸は病み嫌われる存在なのだが、その中で異彩を放つものに興味を示し四方八方から覗き込んでは首を傾げ、その世界観に引き込まれてしまう人物もいるのだ。
何を例に挙げてるのかハッキリ言ってしまうと世の中には男性も女性もそうでない人も50,000と存在する中で異色を放つ存在とはアイドルだったり有名な著名人だったり所謂、成功者もしくはそうなり得る原石を差して書いてます。
成功者を取り巻くのはファンだけではなくアンチも数多く存在しその足を引っ張ろうと四苦八苦しているのです。
嫌いなら無関心でいればいい
は世間の声ですが、関心があるからこそのアンチなのです。捻くれた心理の奥にあるのは誰よりも強い執着心=好きがあるのです。
だから叩くのです。誰よりも好きで興味があるからこそアラ探しが得意でそこを指摘しては反応を見て楽しんでるのがアンチです。
アンチが良い悪いの倫理観はまた別の話です。
自分軸で個性を出す「出る杭」は兎角目立つ存在なのは言うまでもありません。世間はそれを放っておけないのです。それほどまでに他者の心を刺激する存在であるのです。
原点に戻り考えてみよう
そもそも全く同じ人間など存在しないのだ。
それなのに集団で群れ異彩を放つものを排除しようとするのは人間だけではなくあらゆる動植物も似た行動を起こすのだから本能であるとも言えると思う。
ただ先程も書いた通り、全く同じ人間などいないのだ。それなのに一緒くたにするから個性が光らないのだ。
そして自分軸の異才を放つものを嫌い叩くの悪循環に陥るのだ。
嫌いの対義語
「嫌い」の対義語は「好き」なのだ。
「好き」の対義語は「無関心」なのだ。
同一にならない対義語の意味こそが隠された心理に繋がってると思うのは私だけだろうか?
この世は全て対極で成り立っており言葉に置いても同様なのだ。
嫌いの反対は好きであり好きで興味があるからこそ逆側の心理である嫌いに直結するのだ。
なぜそうなるのか?
それは自分が持ってない才能に嫉妬するからに他ならない。だからこそ執着し叩くのだ。
それに対し好きの対義語は無関心なのだ。相反する対義語に驚くだろうが考えてみてほしい。
無関心のものには興味は生まれないのだ。だからこそ好きの対義語は無関心になるのは納得出来るのだ。
話が脱線しまくりで本題が何だったのか?それさえ忘れてるのだが自分軸を否定する方々への宣戦布告とも取れる内容を書き連ねてみました。