我は 画狂老人 卍!!!!!!! | 東京は夜の7時~

東京は夜の7時~

ブログの説明を入力します。

テーマ:ブログ
葛飾北斎(1760~1840)という名前は知っているだろうか。

江戸時代中期の浮世絵師である。
世界中で評価され、あのゴッホが友達に見せまわったり
ドビュッシーが絵を見て交響楽「海」を作ったり
とんでもない絵のオジイサンなのだ。


この2枚は特に有名だね。
誰でも知っている絵だ。

北斎は小さいころから 絵が好きで、14歳で有名な絵描きの弟子になったが いろんな絵を真似してみたくなり、真似っこばっかする人はクビだ!と破門を食らいまくっていた。

とにかく絵が描きたくて描きたくて、でっかいトウガラシのぬいぐるみを背負ってバイトしたり マンガみたいなのやエロい本なんかの絵も
描きながら極貧の暮らしを続けていた。

まあ今でいう相当な変態で 引っ越し回数93回 ペンネーム変更30回
一切料理はせず、コンビニ飯みたいなもので生活し、そのメシの包み紙と失敗した絵を描いた紙のゴミの中に埋もれて一日中描いていたらしい。



その頃の作品。タコに襲われる海女さん。このセンスにはじぇじぇじぇ!としか言いようがない。。。

しかもこのエロマンガを書いた時のペンネーム

鉄棒ぬらぬらである。wwwwww

何考えてるんだろうw



そのうち娘も弟子入りし、一緒に描きまくるのだが、この娘も
相当な変わり者で北斎と一緒にゴミの中で生活し、家事も一切せず
近所の子供にお茶まで入れさせて絵を描いていたそうだ。

北斎は自分の娘をおーい!アゴ!
と呼び(しゃくれていたらしいww)あんまり言われるものだから
そのうち名前を  葛飾応為(おうい)にしました。
北斎との共同作品がこちら。


おそらく真ん中の絵が北斎。
周りの花の絵が応為ちゃんなんだが あれね。
ものすごいオシャレね。びっくりした。



北斎は描きまくった。朝から晩まで。





偉い殿様に呼ばれても 一切、外出せずコタツに潜り込んだまま
一歩も出ず描きまくる生活で
しびれを切らした殿様が北斎の家に迎えに来ても
るせえ!帰れ!!
とか言っちゃうもんだからw。
とうとう将軍様にまで呼ばれることに。

将軍様の前で北斎。
ニワトリの足に赤い絵の具を塗りたくり
そこらへんを歩かせて はい これ モミジ! って言ってそのまま 家に帰宅ww
有名になるのはいいのだが 無愛想でお客さんがうざい北斎。帰らせる為にとうとう

おじぎ禁止 おみやげ禁止
の張り紙まで書いて家に貼る始末。

80歳過ぎてからの北斎はもう 絵の妖怪である。

ペンネームがもうひどいww

画狂老人卍

がきょうろうじん マンジですよ。

ももいろクローバーZみたいwww

自画像も初めはこんな 可愛い感じだったのに


絵の妖怪になると こんな自画像になります。



なんかもう 登り詰めちゃって仙人?神様?80過ぎても燃え盛る情熱が目に見えるようだ。



ある日。お弟子さんがうまく描けないと 相談に来た時。
娘の応為さんが笑いながら言いました。

うちのおやじなんざ こないだも腕組みしたまま 突っ伏して 
80過ぎても猫の子一匹マトモに描けやしねえ。。
と大泣きしてるんだ。何事もうまく行ってないときが上達するとき
なんじゃねえか? と。



88歳になっても描き続けます。 自分の人生が燃え尽きて終えるかのような
切ない絵を描きます。




この龍は天に昇って行く自分を描いているようだ。


90歳になり北斎は燃え尽きるように亡くなります。
亡くなる直前に 
「せめてもう10年、いや、あと5年でもいい、生きることができたら、わたしは本当の絵を描くことができるのだが」と嘆いた。
この偉大な絵師は、最後の最後まで修業をしていたのだった。。

辞世の句です。

「人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原」

(人魂になって、夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか)

かっけーーー!!!!!!!


そして。。。。
娘の応為も父の死を見届けたあと消息不明になりました。

作品は未だに世界中で評価され、まだまだ生き続けています。
葛飾北斎。いや、画狂老人卍!!!!

私は絵にはあまり興味がないけどあなたの作品や生き様は大好きだ!


追伸 こんなブログを書いていたら 偶然なのか 呼ばれたのか
5月の初めにこの 葛飾北斎と娘の応為を主人公にした
アニメの映画が上映されます。

絶対見るでー!!!!