真剣 (マルコ 1章_七巡目) | イエス様の命の言を育てて食す

イエス様の命の言を育てて食す

食べることは喜びです
肉体に食あるように、霊にも食あるのです
イエス様の命の言を繰り返し反芻して存分に味わうブログです

 

 

真の善言真語は、心、言、行、
一致であるから直ちにする

言葉の上のみ同一であっても
心、言、行、が一致しておらぬと力せぬ

偽りの言葉は、落ちついて聞けば
すぐ判るぞ

同じ「ハイ」と言ふ返事でも
不満をもつ時と喜びの時では
違ふであろうがな






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バプテスマのヨハネが荒野に現れて
罪の許しを得させる悔改めの
バプテスマを宣べ伝えていた

そこで、ユダヤ全土とエルサレムの
全住民とが、彼のもとにぞくぞく
出て行って、自分の罪を告白し、
ヨルダン川でヨハネからバプテスマ
を受けた

このヨハネは、らくだの毛ごろもを
身にまとい、腰に皮の帯をしめ、
いなごと野蜜とを食物としていた

彼は宣べ伝えて言った

わたしよりも力のある方が
後からおいでになる

わたしはかがんで、そのくつのひもを
解く値うちもない

わたしはでバプテスマを授けたが
この方は、聖霊によってバプテスマを
お授けになるであろう












自覚があるかどうかは別として
神様から見て、罪のない人はいません


罪は、神様の御心ではなく
自分の思いのまま 生きているから

生じます


そして、その行いが正しいか、悪いか
もまた、神様が決めた法ではなく、
自らの意志で判別しているからです


だからこそ、自分の言葉
自分が裁かれてしまうのです


罪を取り除くには、罪の許しを
なければいけません


そして、許す権威を持つ方は
唯一、イエス様だけです


それは、神様の決めごとです


そして、その許しを得るには
行わなければいけないことがあります


「罪の告白」と「その謝罪」です


それを見て、イエス様は許します


ですが、その謝罪が、本当に心から
の思いか、口先だけかは 見られます


イエス様は、心の中がわかるからです


真剣さがわかるからです


適当でいい加減な掃除と丁寧な掃除は
だれの目でもわかるのです


不満ある返事と悔いた返事は
だれでも聞き分けるのです


システムどおり、謝れば良いわけ
ではないのです


よくよくの咀嚼、大切です



イエス様の御国が来ますように


本日は以上となります
ありがとうございました