今回は

たまたま近所の本屋で見つけた本

をご紹介。

 

著者は政治哲学者らしいのですが、

ホッブズの話が多少あるものの、

政治哲学の難しい話は出てきません。

 

猫を基準にして、

人のおかしさや歪み

を考えています。

 

ポイントは

死の恐怖。

 

死の恐怖をもつがゆえに

人は宗教や哲学を考え出した。

 

著者は何度もそう指摘します。

 

一方、猫には

死の恐怖など

(たぶん)ない。

 

だから

幸福など求めない猫。

 

現在に満足していられる猫。

 

私も猫を飼ってたことが

あります。

 

大学の帰り道、

ミャーミャー鳴く声に引き寄せられ、

子猫を一匹連れて帰ってしまったのです。

 

そんな経験があるからでしょうか、

本書の、猫に関する記述には

「そのとおり!」

と、うなずくばかり。

 

人間に関する記述にも

「そのとおり!」

と、うなずくばかり。

 

でも、

猫になれず、

猫から学ぶこともできそうにない私は、

人のおかしさを指摘することぐらいしかできず。

 

いたって平凡なのです、

私は。

 

話が逸れましたが、

おもしろい哲学の本として

お勧めします。

 

捨てられない本が

また一冊増えて

しまいました。

 

 

 

 

たまたま仕事でご一緒することになったご縁で

著者からいただいたのが

『ためらいと決断の哲学』(青土社)

です。

(私だけもらったのではなく、

いっしょに仕事しているみんなが

もらったのですが。)

 

複雑な問題を

いろんな視点から考えると、

そう簡単に、きれいな答えはでない。

 

こう考えれば、こういう結論になるが、

違う角度から考えれば、別の結論になる。

 

1つの答えをバーンとだせれば、

かっこいいのかもしれない。

 

でも、そういう態度に

ためらいを感じる。

 

どうしても

ゆらいでしまう。

 

だったら

ためらいをなくすのではなく、

それを受け入れて、考え続け、

生きていくことを決断する。

 

「ためらうけれども決断する」

のではなくて

「ためらいながら考え、生きていくことを決断する」。

 

この態度を基本に据えて、

因果関係の問題と倫理の問題を考えるのが、

本書のテーマです。

 

「人生視線」と「宇宙視線」が

キーワードです。

 

日常生活を送るときの

平凡なわれわれの視線が

「人生視線」。

 

永遠の時間や、宇宙の始まりから終わり

までを思い浮かべながらの視線が

「宇宙視線」。

 

この2つの視線が

ためらいとゆらぎを生みます。

 

でも

それを引き受けることを決断すれば、

「浮動的安定」

という状態にいたる。

 

内容は一応このようにまとめられますが、

具体的に文章を読んでいると、

著者と一緒に仕事をしているからなのでしょうが、

一人の人としての姿が、

悩みや不安、怒りや喜びを日々感じながら生きている姿が、

目に浮かんでくる著作です。

 

ガガンボらしき虫を

「害虫」と勘違いして

殺してしまった後悔。

 

愛犬や愛猫を亡くしたときの

自己描写。

 

功利主義が

「最大多数の最大幸福」

を目指すのだから

「大福主義」と呼ぶべき

などの、

茶目っ気のある提案。

 

著者のチャーミングなところが

こういった箇所から感じとれます。

 

ペットの捉え方に関して

「返礼モデル」という独自の捉え方

を提唱しているのですが、

こういう人がこの世にいるのか

と思うと、

世の中、まだ捨てたもんじゃない、

と元気もでます。

 

けれど

自分が唱えた返礼モデルも

自分でその限界を指摘して、相対化します。

ためらいは

徹底されます。

 

ちなみに

犬儒派の始祖

シノペのディオゲネスの末裔

を著者は自称します。

 

犬を尊敬しているからです。

たんなるポーズではなく

ほんとに尊敬しているのです。

 

『いのちとリスクの哲学』(ミュー)は

主に「人生視線」をもとに

災害避難の問題や動物倫理の問題をあつかった著作ですが、

同じく、「一ノ瀬さん」という人が感じられます。

(こちらは自分で買いました。)

 

哲学者には変人が多い

というイメージがありましたが、

そのイメージが変わったのも

著者との出会いでした。

 

本の置き場所に困り、

どんどん本を捨てています。

 

そんな罰当たりなことをしているのに、

大切な本に再会することが

ごくたまにあります。

 

野矢茂樹『心という難問』(講談社)。

 

捨てようかどうしようか、

ちょっと読んでみて決めるのですが、

読むのがやめられなくなり。

 

たぶん、買った直後は読もうとしたはず。

 

でもそのときは

野矢の議論が理解できるほどの能力が

なかったのか、

あるいは、いつのまにか、

野矢と同じような問題関心を

もつようになったのか。

 

『語りえぬものを語る』その他、

野矢の著作ばかり読むように

なっていました。

 

野矢の哲学は

大森荘蔵(野矢の大学時代の恩師)と

ウィトゲンシュタイン

との対決で鍛えられたもの

のようです。

 

ウィトゲンシュタインは

ある時期以降、

哲学とは「治療」だ

と述べていたらしいですが、

私は野矢茂樹に治療してもらっている感じ

が、しています。

 

ちなみに

ウィトゲンシュタインも野矢も

治療の対象にしているのは、

哲学という病に罹った人たち

なのですが。

 

しかも

治療は一回では

たいてい終わりません。

継続的に受けないと

何度でも再発します。

 

哲学とは

生活習慣病

なのか。