今日も朝から蝉が賑やかに鳴き暑い一日でした
68年前の広島も暑かったのでしょうね
原爆が落とされた8時15分、今年もテレビ中継に合わせて黙祷し、亡くなられた方、被爆された方への思いを新たにしました
68年前、兵隊として宇品にある気象台にいた父は幸い爆心地からは少し離れていたので直接被爆はしなかったのですが、その後すぐ被害の大きかった市内に入り、そこでの作業がずっと続いたそうです。
22才で被爆した父は戦後田舎に帰り教職につきましたが、生徒を引率しての修学旅行で平和公園に行っても資料館の中にはどうしても足を踏み入れる事は出来なかったと言います
教師として授業の中では自分の体験を生徒に語っていた父でしたが、私や弟にはあまり話したくなかったようです。
ただ一度だけ、私が中学生の頃に聞いた話し、身体中火傷で 熱くて「兵隊さん水を下さい」と訴え続けて亡くなられた方たちの事は、後に小学生になった我が子達と行った資料館の写真と重なり、映像となって私の脳裏に残っています。
今日の慰霊祭でも、そんな思いをして亡くなられた方たちにお水をお供えする献水が行われてましたね
当時は原爆の毒が入った水だからと飲ませてあげられなかったそうです。
父もそれが無念だったと言ってました。
テレビ中継の慰霊碑に手を合わせつつ、父もあちら側の人になったんだな~と…
今までとはまた違った思いでの黙祷になりました
憲法改正の不安のある今の日本を、天国の父達はどんな思いで見ているのでしょうか?
68年前の広島も暑かったのでしょうね
原爆が落とされた8時15分、今年もテレビ中継に合わせて黙祷し、亡くなられた方、被爆された方への思いを新たにしました
68年前、兵隊として宇品にある気象台にいた父は幸い爆心地からは少し離れていたので直接被爆はしなかったのですが、その後すぐ被害の大きかった市内に入り、そこでの作業がずっと続いたそうです。
22才で被爆した父は戦後田舎に帰り教職につきましたが、生徒を引率しての修学旅行で平和公園に行っても資料館の中にはどうしても足を踏み入れる事は出来なかったと言います
教師として授業の中では自分の体験を生徒に語っていた父でしたが、私や弟にはあまり話したくなかったようです。
ただ一度だけ、私が中学生の頃に聞いた話し、身体中火傷で 熱くて「兵隊さん水を下さい」と訴え続けて亡くなられた方たちの事は、後に小学生になった我が子達と行った資料館の写真と重なり、映像となって私の脳裏に残っています。
今日の慰霊祭でも、そんな思いをして亡くなられた方たちにお水をお供えする献水が行われてましたね
当時は原爆の毒が入った水だからと飲ませてあげられなかったそうです。
父もそれが無念だったと言ってました。
テレビ中継の慰霊碑に手を合わせつつ、父もあちら側の人になったんだな~と…
今までとはまた違った思いでの黙祷になりました
憲法改正の不安のある今の日本を、天国の父達はどんな思いで見ているのでしょうか?