四月十九日で止まっていたブログ

 

五月十二日をもって真っ白になったスケジュール帳を見る今日は七月七日らしい

 

友人の誕生日

 

そもそも私が誕生したのは、かつて両親が子供が欲しいと望んだから。

 

愛されて育ったと思うけれど仮に両親の元に誕生したのが私じゃなくとも両親はその子を我が子として愛でただろう。

 

そんな所詮、「両親が望まなかったら誕生しなかった私」が「私として産まれてきた意味」なんて無く、探しても見つからなかった。寂くなった。

 

 

今までずっと

「たまたま産まれただけの自分」が「私として産まれてきた意味」を無いものにしてきた。

 

 

っとここまでいかにも両親に望まれて、産まれてこさせられたかのような言い草だが、実際のところ望まれて産まれたのか、出産するのが当たり前という価値観由来で誕生したのか、あるいは不本意な誕生だった可能性も大いにある。

 

 

となると

私として産まれてきた理由が両親の都合以外で何かあるのでは?

と、ちゃっかり期待が湧き、もれなく希望を抱く。

 

 

そして

 

「両親が望まなかったら誕生しなかった私」が「私として産まれてきた意味」なんて探しても見つからなかった。

というのも当然で。見つからないものを見つからないから探す(とんちのようだけど無いものを探すとは一体、、、)

 

 

探せば見つかると信じ探しに行く。探せば探すほど見つからないから焦って走って探しに出る。

見つけようと必死に走る自分の姿が脳裏に浮かび涙が出る。

 

走って探しに行った先ではコンプレックスに殺されそうになり自己否定するしかなかった。

帰り方も帰る場所もわからなくなり、いつしかそこに慣れ、慣れた場所から離れるのが怖くなった。

 

この涙は

「私として産まれてきた理由を知る私」が流す涙。

どんどん遠くへ探しに行くもんだから、もう行かないでと泣く。

もういいんだよと帰っておいでと寄り添うように涙が出る。

 

 

無いものを見つけるのではなく、忘れていることを思い出す。

 

思い出す=有る ということだからキラキラ

 

 

 

ドキドキドキドキドキドキ