いつか、一緒に過ごしている人達は、皆んな1人残らず居なくなる。
生きている事は綺麗事だけでは片付かない。「あの人幸せそうで羨ましい」なんて、綺麗事。そんな風に羨ましく見ていた人達も、皆何かしら人生の荷物を背負っている。職場の人達、そこに来るお客さん、テレビに出てる芸能人、名前も知らない隣の家の家族、公園で遊んでる子供達、同じ電車の車輌に乗っている人、「もう9時」と掛時計を見上げる私も、ソファーの隣でウトウトする白猫。皆、いつか死ぬ宿命を背負って生きている。
ふと、降って湧いてきた思いつき。
改めてそんなフィルターを掛けて身近な人々に重ねてみると、又その人達への違った思いも湧いてきそうな気がした。
しかし、何故か死は受け入れ難いものだと言う先入観でそのフィルターを身近な人に掛ける事に抵抗がある。無意識に刷り込まれた何かしらの情報がそれを受け入れたくないんだなぁ…とか思う。
最近、テレビや携帯のネット云々がとてもつまらなくて、疲れてダラダラする事もつまらなくなってきて、自分自身の次のステージへの移行期間なのかなぁとか感じてる。価値観変わってきたかな?ってさ。
皆んな死んじゃうんだよ。どんな生き方をしていても必ず肉体は死んでしまう。死を恐れる人にも、死に寛容な人にも、死に強がりな人も、死に無関心な人も、死を認識しない人も。どんなに嫌いで胸糞悪いヤツも、どんなに愛の深く優しい人も、ずっと抱き締めていたいと思う大切な人も、自分の心を癒す歌を歌ってくれる歌手も、ただ仕事に疲れ果てて心の余裕もなくソファーで寝るだけの私も、老若男女平等に皆死ぬ。
『生き方』と『死に方』は比例していくのでは、と思った。どんな死に方を選ぶのかは、それまでの『生き方』で決まっていくのでは、と。
晩御飯食べ過ぎてソファーでゴロついてるおばさんは、これから洗濯物を干してシャワー浴びて寝支度に入る。何にもしたくないと、全てに無気力な瞬間も、私は死と共に、生きている。