絶対的な空無にぶちあたった人間 | 東京大学村上文緒愛好会

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一つ一つの言葉にこめられた作者の思いがわかったとき、古典は本当に面白いと思った。古典を楽しみたい。その思いが古い言葉の意味を求めるきっかけにもなった。

『意味という病』は柄谷行人氏の初期の代表作で『探求Ⅱ』より大分前なのですが、そうした批評のあり方、成り立ちを踏まえた上で読んでいただきたい。私小説論や森鴎外論、色々収録されていますが、今日は冒頭の「マクベス論-意味に憑かれた人間」を中心に論じていきたいと思います。
先に課題について説明します。終盤にこういう一節があります。

すでに述べたように、シェークスピア「悲劇」の主人公たちは何らかの契機によって、わけのわからないメランコリーに陥る。彼らは偶然で無意味な「白痴のたわ言」の世界、「生命の川」のかれはてたグロテスクな世界を見出す。そして、そこから脱出しようとして行為に踏み切り、自分を必然化 (運命化)しようとするが、それが贋であり虚像の幻影にほかならないことを認識させられる。この自己認識は幻滅 disillusion とよぶべきものだ。
彼らはオイディプスのように「本質」を認識するのではなく、人間には「本質」などないのだという認識を得るのである。

ご存知のとおり、オイディプス王はギリシャ悲劇の代表で、王になった後で自分が殺した男が実の父であり、妻とした女は母だったと知らされる。怪物スフィンクスを唸らせるような叡知を持っていながら、肝心なこと、本質的なことが一切見えていなかった、それで自分の両目を潰して放浪に出るわけですけれども。
それに対してシェイクスピアは、自分の本質なんてものが何もない、そういう絶対的な空無にぶちあたった人間の悲劇なのだと、柄谷氏は言っている。課題ではこの
、本質がないということ、本質の不在について考えていただきたいと思います。

公益社団法人難病の子どもとその家族へ夢を

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