三島由紀夫より売れる小林秀雄 | 東京大学村上文緒愛好会

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一つ一つの言葉にこめられた作者の思いがわかったとき、古典は本当に面白いと思った。古典を楽しみたい。その思いが古い言葉の意味を求めるきっかけにもなった。

実際、文庫でも全集でも、三島由紀夫より小林秀雄の方が全然売れている。ケタ一つ違うんじゃないかな。新潮社の全集なんて、あんなに高いのに、未だに増刷されていて、本当に読者をしっかり捕らえている。江藤氏であれ柄谷氏であれ、批評家が大きな顔をしていられるのは小林秀雄のおかげです。
石川淳氏が『文學大概』の中で、近代小説は市場で叩き売りされるものだと言っていますけれども、昔の叙事詩のような「某の王に捧げる」といった形とは根本的に違う、不特定多数の人の手に渡ることを前提としなければならない、それが近代小説の宿命なのですね。同じように、小林秀雄によって批評もまた商品として流通するようになった。
『考えるヒント』あたりからでしょうか。昭和三十年代に『文藝春秋』で連載された名エッセイで、近頃こんな映画を見たとか、こんな話を聞いた、といった身近な話題を元にしながら、歴史や常識、良心といった、普遍的な価値観のあり方が示されている。今でも、小説を読まない人でも、小林秀雄は読む、文学に興味がなくても『考えるヒント』はおもしろい、という読まれ方をしていますよね。要するに批評家という職業が、作家やジャーナリストと伍して存在し得るようになったわけです。
これは世界的に見るとかなり異様なことです。欧米でクリティーク、批評家というと、一つは書評家、ニューヨークタイムズとかワシントンポストといった有力誌に書評欄を持っている人で、もう一つは大学の先生です。日本でも大学の禄を食む批評家はいますし、小林秀雄も一時期明治大学で教えていましたけれども、別に辞めてもどうということはない。江藤氏が全共闘運動を批判したり、柄谷氏が湾岸戦争について語ったり、批評家が文学だけじゃなくいろんなことについて発言をするという一種の知的風土も、日本独特と言っていいと思います。
批評が作品として自立すること、作品が商品として流通すること、批評家がアカデミズムや文壇のしがらみとは関係なく、公衆に読者を持って存在しているということ。この三つがセットになった構図は、小林秀雄が作り出して以来、未だに壊されていない。
宿命、私情、単独性
宿命について語るという批評の本分、批評のあり方も、ほとんど変わっていません。価値観は通分できないということを前提にした上で、価値観を示そうとすると、どうしてもそうならざるを得ないんだと思いますけれども。
小林秀雄が「宿命」と言ったのに対して、江藤淳は「私情」という言い方をしています。
代表的なのは『戦後と私』、すごく好きなエッセイです。江藤氏はお祖父さんが海軍士官、お父さんが帝国銀行に勤めていて、敗戦によって自分が信じてきた秩序や何かが全部崩壊してしまった。本当に苦労しながら完璧な漱石論を書いて、アメリカに留学して帰ってきて、批評家としての地位を確立したときに、かつては高級住宅街だった大久保の生家の跡がラブホテル街になっているのを見て、愕然とするわけです。自分の喪失、日本の敗北は全然終わっていない。繁栄の時代だと言われているけれども、何が自由だ、何が人権だ、経済的に豊かになったとしても、自分にとっての「戦後」は喪失の時代でしかあり得ない、どんな思想をもってしても、この「私情」をどうすることもできないんだと言っている。
柄谷氏で言えば、『探求Ⅱ』に出てくる「単独性」でしょうか。哲学者や思想書には「私」は出てくるけれども「この私」という視点が抜けている、物事の本質とか致命的な何かというのは、「この私」の「この」の方、一般化しようがない単独性の中にこそ現れるのではないかという。この問題意識は、やはり小林秀雄の「宿命」と通底するものなんだと思います。

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