| 歩いているとふと目に入ったのはその昔遊郭だったとの石碑。 |

| なになにかの赤穂浪士の大石良雄が遊んだと。 |

| ほー、この石碑に遊郭のいわれが書いてあるって。読んで見るがうーん難しい、調べたことも一緒にして。 |

絶世の英雄豊太閤伏見城を築くに及び伏見の殷賑(いんしん)は一躍して天下の中
枢となれり當遊郭の此殷賑時代の創設にかかり慶長元年林五一郎なるもの(林又五郎の誤書の説あり)
伏見田町に遊郭を起こしたるをその前身とし伏見落城後幾許も無く廃滅に帰せしかば
渡辺掃部 前原八右衛門の両名は時の伏見奉行長田喜兵衛 柴山小兵衛に請い慶
長九年十二月二日富田信濃守邸址を開地して再興す花街の形状撞木に似
たるにより撞木町の名あり実に今を距る(へだたる)三百十四年の昔なり其の後
いく盛衰を続けたるが元禄宝永の頃は最も繁栄せしものの如く各書に云う都に近
く島原の流れを汲めるものなり鄙びずと嘗て(かって)京都の公家衆の多数が屡々(しばしば)来遊せし
事をも載す殊に赤穂義士大石良雄が敵を欺く佯狂苦肉(ようきょうくにく)の一策として
当遊郭笹屋清左衛門方に遊興せることに人口に膾炙(かいしゃ)せられ義士の名と
ともに撞木町の名は天下に伝わり且つ義士が此処に復讐の謀議を凝らして
目的を達せるより後来當遊郭に於いて謀議する時に何事も成就すべしとて
来遊する人々多しと云
枢となれり當遊郭の此殷賑時代の創設にかかり慶長元年林五一郎なるもの(林又五郎の誤書の説あり)
伏見田町に遊郭を起こしたるをその前身とし伏見落城後幾許も無く廃滅に帰せしかば
渡辺掃部 前原八右衛門の両名は時の伏見奉行長田喜兵衛 柴山小兵衛に請い慶
長九年十二月二日富田信濃守邸址を開地して再興す花街の形状撞木に似
たるにより撞木町の名あり実に今を距る(へだたる)三百十四年の昔なり其の後
いく盛衰を続けたるが元禄宝永の頃は最も繁栄せしものの如く各書に云う都に近
く島原の流れを汲めるものなり鄙びずと嘗て(かって)京都の公家衆の多数が屡々(しばしば)来遊せし
事をも載す殊に赤穂義士大石良雄が敵を欺く佯狂苦肉(ようきょうくにく)の一策として
当遊郭笹屋清左衛門方に遊興せることに人口に膾炙(かいしゃ)せられ義士の名と
ともに撞木町の名は天下に伝わり且つ義士が此処に復讐の謀議を凝らして
目的を達せるより後来當遊郭に於いて謀議する時に何事も成就すべしとて
来遊する人々多しと云
大正七年十一月 高橋 桃城 誌
遊雲 散士 書
遊雲 散士 書
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