出雲風土記によると、
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。
このような「国引き神話」があるくらい、朝鮮半島との交流は古くからあったようです。
で、親の出身地五十猛町には「新羅神社」があるのです。子供のころからその話は聞かされてきたのですが、車で行くとちゃんとナビに表示されたので、急に思いたって神社まで行ってきました。
だって、「新羅」と聞けばどうしても「善徳女王」を思い出してしまうので…

五十猛漁港の西側高台にひっそりとありました。石見風土記によると延長3年(925年)に創立されたそうですが、それは社殿が建てられた年で、その以前から「神籬磐境のかたちで祭っていた」と考えられています。
【神籬磐境】太古の人々は、気象の動きや自然の移ろいに、神の存在を感じていました。万物に神々が宿ると信じ、神の力を戴き、神と共に暮らすことを願っていたのです。
そして、神を招き、感謝と祈りを捧げる祭祀を執り行っておりました。それに答えて神が降臨(こうりん)される依代(よりしろ)が、磐境(いわさか)・磐座(いわくら)であり、神籬(ひもろぎ)であり神奈備(かむなび)でした。神々は、祭祀の度ごとに降臨(こうりん)され、祭りが終わるとお帰りになられました。神聖とおもえる岩の点在している所や巨石、大きな樹木、森、山などを依代(よりしろ)として神が宿られたのです。そのほかにも丘、川、滝、海、島というような処にも神々がお降りになられたのですが、現在でも当時の祭祀の片鱗に触れることはできます。こうした磐境神籬(いわさかひもろぎ)は現在の神社の原形といわれています。

「五十猛命・大屋津姫命、抓津姫命の三神は父神・須佐之男命と一緒に新羅の国に天隆り、そこから埴船(土でつくった船)に乗り日本へ帰国するとき、磯竹村の内大浦の灘なる神島に上陸し、須佐之男神はこの大浦港に御社を建てたとある。これを継いだかたちで五十猛神社では、御子五十猛・大屋津姫・抓津姫三柱の神は磯竹村の内なる今の宮山に御社を建て鎮り給い、それより五十猛村と言う」というのが地名のいわれです。


神社の境内には「無形文化財指定グロ」の説明がハングルでも書かれていました。
グロについては詳しくはこちら
須佐之男命が休憩したと言い伝えられる「神島」はちょうど高台の墓地から見えます。



神社の周りはほんとうに美しい日本海。
出雲・岩見の国はもともと大陸からの渡来人が多かったようですが、須佐之男命も新羅人だったのでしょうか??
新羅神社で写真を撮りながら、頭の中は「善徳女王」のテーマが流れっぱなしのfuminでした~
