浅見光彦の地元 | klockerのブログ

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 東京都北区上中里(かみなかざと)平塚(ひらつか)神社に行った。この神社の近くに西ヶ原がある。

 東京都北区西ヶ原は、推理小説家、内田康夫の作品「浅見光彦(あさみみつひこ)シリーズ」の浅見光彦の実家があるところである。「浅見光彦シリーズ」の第2作『平家伝説殺人事件』には、西ヶ原のことが書かれている。

 「浅見の家は、北区西ヶ原にある。桜で有名な飛鳥山(あすかやま)公園に近い。国電の京浜東北(けいひんとうほく)線を王子(おうじ)で降りて飛鳥山を越えてゆくか、一つ手前の上中里で降りるか、どちらにしても似たような距離を歩くことになる。浅見は大抵(たいてい)の場合は車で動き回るけれど、駐車場探しに苦労しそうな仕事では電車を使う。そして、降りる駅は上中里に決めている。

 生まれ育って三十年も見慣れた風景だが、浅見は上中里から西ヶ原にかけての一帯の街並みが好きだ。おそらく、東京二十三区のどこよりも立ち遅れていると思われるこの街には、旧(ふる)い東京のたたずまいが色濃く残っている。

 上中里駅から旧電車通りへ登ってゆくダラダラ坂の右側には、源頼朝(みなもとのよりとも)を祀(まつ)る平塚神社の宏大(こうだい)な境内が続く。境内入り口の茶店『平塚亭』は江戸期からの歴史をもち、昔ながらの素朴(そぼか)な和菓子を商(あきな)っている。

 浅見は『平塚亭』に寄って、串団子(くしだんご)を甘辛(あまから)五本ずつ、買った。ここの団子を母親の雪恵が好物(こうぷつ)で、母を篭絡(ろうらく)するにはこれに限った。この日“篭絡”の必要性があったわけではないのに、どういうわけか買う気になったのは、虫の知らせの続きのようなものかもしれない。思いもかけぬ珍客(ちんきゃく)が、浅見の帰宅を待ち侘(わ)びていたのだ。・・・・・・・」

 この『平塚亭』は「浅見光彦シリーズ」の第3作『赤い雲伝説殺人事件』にも登場する。

「・・・・・・それじゃ、上中里の平塚亭で、団子でも食いながら会いましょう。」

――団子、ですか・・・・。

左党(さとう)の堀越(ほりこし)は、あまりゾッとしない声を出した。

 平塚亭は『平塚神社』の境内にある古びたちっぽけな茶店だ。甘辛団子をはじめ、昔ながらの和菓子を商っていて、かなりの繁盛(はんじょう)だが、その割には店構(みせがま)えは一向(いっこう)大きくならない。浅見が子供のころと少しも変わらないどころか、母親の雪恵が浅見家に嫁いできた頃もおなじようなものだったというから、よほど頑固(がんこ)な経営をしているに違いない。店内は狭く、むろん空調設備だの音響効果だのという洒落(しゃれ)たものは何もないので、アベックや長っ尻(ながっちり)の客は寄り付かない。それだけに、かえって落ち着いて話ができるというものだ。

 なお、この作品では、浅見光彦の実家は、東京都北区西ヶ原3丁目と書かれている。

 ところで、『平家伝説殺人事件』では、「源頼朝を祀る平塚神社」とあるが、祭神は源義家(みなもとのよしいえ、八幡太郎はちまんたろう)、義綱(よしつな、賀茂次郎かものじろう)、義光(よしみつ、新羅三郎しんらさぶろう)の源氏の三兄弟である。

源義家は、平安時代後期、東北で起こった前九年の役(ぜんくねんのえき)・後(ご)三年の役を鎮圧(ちんあつ)して、東国に源氏の基盤(きばん)を築(きず)き、武家(ぶけ)の棟梁(とうりょう)としての地位を確立した。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)は義家の子孫である。

 後三年年の役(1083-11087年)の帰路(きろ)、義家、義綱、義光の三兄弟はこの地に立ち寄った。当時、この地を支配していた豊島氏(としまし)がこの源氏三兄弟の徳(とく)を慕(した)って、元永(がんえい)年中(1118-1120年)に、三人の逗留地(とうりゅうち)に社(やしろ)を営(いとなん)んで「平塚三所大明神(さんじょだいみょうじん)」としたことが起源(きげん)とされている。