※震災遺構の写真があります。閲覧の際はご注意下さい。

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 教室を見たあとは、教室と体育館を繋ぐ渡り廊下の部分を見学した。写真中央に映っているのは体育館に隣接していた倉庫と思われる。体育館は写真右側にあったはずだが、津波で流されてしまったのか残っていなかった。

 あんなに大きくて頑丈そうな渡り廊下が根元から倒されている。どんなに頑丈な渡り廊下も津波の威力には敵わなかったということだろうか。

 写真では見えにくいが、倉庫だった場所には、運動会で使っていたと思われる玉入れのカゴや綱引きの綱などが収納されていた。大川小学校の運動会は児童だけでなく、地域住民も参加して行われていたという。規模の小さい小学校であったが、地域との繋がりが強かった小学校でもあった。


 他のブロガーさんの記事などでも見た、子ども達が卒業制作で描いた壁画を見てみた。

 一番左側には橋が描かれている。太平洋から昇る朝日を描いたのだろうか。中央にはカモメ(白鳥?)が描かれており、写真右側の部分には震災前の大川小学校の校舎と虹が描かれている。写真右下にある「未来を拓く」というのは大川小学校の校歌のタイトルにもなっている。

 民族衣装を着た世界中の人々が手を取り合う様子も描かれていた。世界平和を願って描いたのだろう。今の私達は「世界平和」を実現できているだろうか。互いを思いやり、助け合って生きているだろうか。

 壁画の一番右側には、宮沢賢治さんの小説「銀河鉄道の夜」をモチーフにした絵が描かれていた。


 「世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない…」宮沢賢治さんが残した言葉のひとつだ。2021年に盛岡に行き、渋民・好摩地区の雄大な自然を見たときのことを思い出す。
 渋民駅から歩いて石川啄木記念館に行ったとき、正面には姫神山がそびえ立ち、北上川が悠々と流れ、木々が赤や黄色に色付いていた。渋民公園からは岩手山が見えた。こんな風景は東京や神奈川、千葉では見られない。雄大な自然の中では、人間は本当に小さな存在でしかないと思った。
 だからこそ人間は助け合って生きていかなければならないし、自然に感謝しなければいけない。宮沢賢治さんは「(人間は)自然の中で生かしてもらっている」ということを文学を通して伝えたかったのだろう。


 学校近くの裏山には、津波到達地点の看板が設置されていた。写真では見えにくいが、黄色い丸で囲ってあるものだ。あの日、8.6mの津波が大川地区を襲い、大川地区では400人以上が犠牲となった。
 あの日、児童は裏山に逃げず、何十分も校庭に留まっていた。避難行動を開始したのが、津波が襲来する1分前のことであり、川の近くの三角地帯へと向かってしまった。その結果、全校児童108人中70人が犠牲になり、4人が行方不明、教職員も11名中10人が犠牲になってしまった。

 高いところへ逃げていれば子ども達も、先生方も助かったのかもしれない。しかし、裏山のふもとまで津波が来たことを考えると、何が最善の選択だったのかなんて答えは出ない。裏山への避難を即決できなかったのは、降雪で足場が悪くなっていたこと、余震のリスクなどもあったためだとも言われている。

 自分でも上手く言えないが、ただひとつ言えるのは、全てが全て、学校や先生の責任ではないということだ。先生だって、子ども達を死なせたくて死なせてしまったわけではない。色々なリスクを考えての決断だった。

 地震が来たらとにかく逃げる。他人に構わずとにかく逃げる。そして川や海には絶対近付かない。逃げて何もなければそれでいい。それが今後の防災を考えるうえでの「スタンダード」になることを願うのみだ。

 次回の記事で、大川震災伝承館を見学した感想を書いていきます。それでは次回に続きます!