※震災遺構の写真があります。閲覧の際はご注意下さい。


前回までの記事はコチラから。




 12:25に大川小学校に到着した。川沿いということもあり、とにかく風が強い。タクシーの運転手さんから「風が強いので飛ばされないように気を付けて下さいね〜」と言われたのだが、本当に飛ばされてしまうのではないかと思うくらい風が強かった。

 かつて校門があったところなのだろう。これだけ見ると「今もやっている現役の小学校では?」と思ってしまう。しかし、周辺に集落はなく、子どもたちが生活している気配もない。ここが「震災遺構」だという事実を突き付けられる。

 最初は校舎外観から見学した。建物自体は残ったが、校舎の中が丸見えになってしまっている。

 かつて体育館だった建物だ。写真左側に見えるのは、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下だ。津波により、根本から倒れる形で破壊されてしまった。

 校舎の円形部分は1〜2年生が使っていた教室があった。説明書きがなければ、教室があったことすら分からないほど破壊されてしまっている。当時の面影はほとんど残っていなかった。

 震災前の大川小学校の校舎とその周辺の写真があった。美しくのどかな自然、モダンな円形の校舎。春には桜の花が咲き誇る。そして、周辺には「人々の生活の営み」があった。


 大川小学校の歴史は古く、そのはじまりは1873年に開校した「桃生郡釜谷小学校」にまで遡る。学制改革や市町村合併等を経て、1955年に「河北町立大川小学校」となり、現在の校舎が完成したのは1985年のことであった。一時期は300人近い児童が在籍していたこともあったという。
 2005年、平成の大合併により河北町は石巻市に編入され、「石巻市立大川小学校」と改称された。

 しかし、2011年3月の東日本大震災により、日常は一変してしまう。



 北上川を遡上してきた8.6mの津波が学校を襲い、学校管理下にあった全校児童108人中70人が亡くなり、教職員も11名中10名が犠牲となってしまった。児童4人が今も行方不明となっている。その後の避難誘導や学校側の対応を巡って、遺族が学校を相手取って裁判を起こしたのは既知のとおりである。

 震災後、生存した児童は「石巻市立飯野川第一小学校」(現:石巻市立飯野川小学校)に通うことになったが、2014年からは「石巻市立二俣小学校」の仮設校舎に通うことになった。大川小学校の校舎を建て直すことも検討されたが、周辺地域が「非可住区域」に指定されたことにより児童数が減少し、2018年3月をもって閉校となった。現在は「石巻市立二俣小学校」に統合されている。


 大川小学校を訪れたブロ友さんのブログで見たこの看板。かつて町があったことは全く想像できない。子どもたちが走り回っていた風景も全く想像できない。周辺地域が「非可住区域」になったことにより、「人々の生活の営み」が消えてしまった。

 震災が起きた2011年3月11日は「いつもと同じ朝」だった。「おかえりなさい」の声を聞くこともなく永遠の別れをすることになろうとは、誰が思っただろうか。


 大川小学校敷地内にある「大川震災伝承館」と大川小学校の校舎を行ったり来たりしながら、見学していった。
 校舎の詳しい様子等は次回以降の記事にて書いていきます!