皆さんは「原爆小頭症」という病気をご存知だろうか?
これも原爆の後障害のひとつである。
頭囲が他の人と比べて小さく、知的発達の遅れや身体障害を伴うことがある。
原因は妊娠初期に浴びた、大量の放射能だ。
つまり、放射能はお腹の中の赤ちゃんにも大きな影響を与えるということになる。

実際に、原爆小頭症で重度の知的障害を持つ女性がいる。
その女性の名は、畠中百合子さん。現在69歳。
資料館では、百合子さんのこれまでの人生が映像で紹介されていた。



畠中百合子さんは1946年2月14日生まれ。父・国三さんと母・敬恵さんの子どもとして生まれた。

百合子さんの母・敬恵さんは妊娠3ヶ月のとき、爆心地から730メートルのところで被爆した。
妊娠初期に大量の放射能を浴びたことにより、百合子さんは重度の知的障害を持って生まれてきた。しかし、両親は自分の子どもが重度の障害を持っていることなど、知るよしもなかった。

無事に生まれてきた百合子さんだったが、1歳になっても這うことができない。3歳になっても歩けなかった。
6歳、本来なら小学校に入学する歳だが、百合子さんは行けなかった。6歳になってもトイレに行くことすらできない。家で絵本を読んだり、お菓子を食べたりして過ごしていたという。

百合子さんが「原爆小頭症」であることを知ったのは生まれてから11年後(1957年)のことだった。
同年に公開された記録映画「世界は恐怖する」で、実際に百合子さんが出演されている。この映画は原爆・水爆がもたらす「死の灰」の実態を描いたもので、広島・長崎で胎内被爆して産まれた子どもも多数取り上げられた。

重度の知的障害を持つ百合子さんの知能レベルは2歳3ヶ月ほどだと言われている。
日常生活動作のほとんどに介護が必要で、常に人の助けがないと生活できない。生きていけない。

百合子さんの介護をするのはご両親。
ところが1978年12月、母・敬恵さんが癌で亡くなる。百合子さんが32歳のときだった。
以降、百合子さんの介護は父・国三さんが担ってきたが、国三さんも2008年に亡くなられた。
現在、百合子さんは妹さんと共に暮らしているとのこと。家族は皆、百合子さんの将来に対して不安を抱いている…。


重度の知的障害を持つ方(成人)の生活。
かつて保育を専攻していた私は、特別支援教育や障害のことも勉強していた。保育実習で成人の知的障害者の施設に行ったこともある。それだけに胸にズシリとくるものがあった。

かつて、重度の障害を持つ子どもは生まれる前に亡くなったり、無事に生まれても数年、十数年しか生きられなかったり、というケースが多かった。

現在は医療や福祉の発達により、重い障害を持つ人の多くが「長生き」して人生を謳歌している。
しかし、「長生き」できるようになったということは「親亡き後」も生きられるようになったということでもある。いくら両親が元気であっても、子どもより先に逝ってしまうという運命からは逃れられない。
介護してくれる両親がいなくなったあとどうするか、それが一番の問題だ。

百合子さんは現在69歳であり、両親は既に亡くなっているため、妹さん(とそのご家族の方?)が介護を担っていると思われる。
とはいえ妹さんも60代くらいだろうか?妹さんにも病気や介護が必要になる可能性が出てくるだろう。

また、百合子さん自身の身体も老いてくる。身体が年を取れば、難しくなる生活動作も増えてくるかもしれない。


放射能は地球上で生きている「命」に大きな影響を与える。
しかし、お母さんのお腹の中に宿っている「命」に対しても大きな影響を与えることを忘れてはならない。
そして、生まれつきの障害と一生付き合っていかなければならないし、(障害を持って生まれた子どもの)家族の人生も大きく変えてしまう。

これが「被爆2世」「被爆3世」という言葉の重みなのかな…。
健康に生まれてきた人も沢山いらっしゃるが、いつ放射能の影響が出るかは誰にも分からないし、予測できない。
子や孫の代、いや、さらにその先の世代まで影響を与えるのが放射能だ。


資料館の順路の出口には「75年は草木も生えないだろうと思われた広島に、草が生えた」というパネルが展示されていた。

資料館を見学し終えて思ったこと。
とにかく凄かった。衝撃的だった。全てを理解することは難しかったけど、被爆した人や物、それぞれに「物語」があると思った。遺品のひとつに「使っていた人」の物語があり、さらに「使っていた人」の「家族」の物語が存在する。
そして「人」や「物」の物語だけでなく、「被爆前」と「被爆後」の物語も存在する。被爆前の社会情勢、被爆後の被害、街の復興、放射線による後障害、戦後70年経っても癒えない心の傷、身体の傷。

平和記念公園や資料館には多くの外国人観光客が来ていた。外国の人の目にはどのように映ったのだろうか?特にアメリカの人は、日本が受けた被害を見て、どう思ったのだろう。
私はアメリカを憎む気持ちなどない。だけど、たった一発の爆弾で何十万という命を奪い、戦後70年経っても多くの人を苦しめているのは紛れもない事実だ。
アメリカの未来を担う若い人達にも知って欲しい。武力を使って問題を解決するなんて、お互いの心にトラウマを残すだけ。戦争に勝ちも負けも存在しない。みんな、一生の苦しみを抱えて生きていくんだよ、ということを。

資料館を出る前、スタンプがあったので押して帰った。









資料館を出ると、既に17:00を回っていた。レストハウスで折り紙を買い、鶴を2羽折って「原爆の子の像」のところに捧げた。
原爆ドーム前の電停から広電に乗り、八丁堀へ。
八丁堀電停から歩くこと5分、この日宿泊するホテル「アレーホテル広島並木通」へと向かった。