仙台の五橋通りにあるフレンチのビストロ
ラ フルール ド スリジエ店主のSatoです。
本日もお付き合い頂きありがとうございます😊
今日も先日の続きになります。
例の極悪非道な先輩
に毎日鍛えあげられたおかげで、自分も少しずつ仕事が出来る様になっていきました。
【そして更なるステップへ】
そしてその極悪非道な先輩もお手伝いの期間満了で退社
更には今まで散々責任を人のせいにしてナスリつけていた嫌な先輩も辞めて
気がつけば自分も、そのお店の中ではある程度の責任のある立場になっていました。
そしてフランス料理の世界に入って若干3年目にして、自分で言うのもおこがましいですが、そのお店では、だいぶ発言力のある地位に認められる様にもなりました。
そしてお店では、それなりに自分の思う形を作る事が出来てきてはいたのですが、まだまだ自分も料理を覚えたい
もっと経験値を積み上げていきたいという欲求もまた芽生え始めてきたのです。
そのキッカケもまた意外なところから降ってきました。
それは自分が今の奥さんと出会い、子供が出来たのでした。
そこで今度は家族を養っていかなければならない様になり、収入を増やすべく自分も次のステップを目指す事にしました。
次の職場に求めることはズバリ
「お給料がしっかりと貰える」
というのが一番の条件でした。
そして今度は、地元仙台で系列店を幾つか抱える会社にお世話になる事になりました。
2011年1月の事でした。
【東日本大震災】
自分が配属されたお店は幾つかある系列店の中のイタリアンバルでした。
新しい職場は仕事こそ、かなりハードでは有りましたが、働いているスタッフも若いスタッフが多く、人の良さが感じられる雰囲気のお店でした。
そんな職場で少しずつ慣れて来た
2011年3月11日金曜日
自分は夜のご予約のお客様用で食材の買い出しに出かけていたお昼過ぎの事
突然地鳴りのような音と共に地面が大きく揺れ始めました。
元々、仙台は地震の多い町でしたから、今回も直ぐに収まるだろう
と思っていました。
しかし揺れは一向に治る気配が無く、次第に周りの棚がドンドン倒れ始め、あちこちから悲鳴が聞こえて来ました。
今回は大きい❗️
みるみるうちに道路が人で溢れ返っていきました。
更に信号も全て止まり、携帯電話も繋がらない状況になったのです。
自分はとりあえず、何が起きたのか良く理解も出来ずにお店に戻る事にしました。
お店に戻ると店内はガラスが散乱
電気も点かない状態でした。
そこから、当時の社長が別店舗に一旦スタッフを集めるようにとの指示があり、皆でそこの店舗に集まりました。
そこでも電気は使えず、電話も繋がらないのでとりあえずは一旦解散して家に帰るようにとの指示がありました。
その時点で自分達の多くは沿岸部に津波が押し寄せているなんて事は知りませんでした。
家では、もうすぐ臨月を迎える奥さんが机の下で全く動けずに仰向けになっていました。
とりあえずお互いの無事を確認し
その夜は真っ暗な部屋で、卓上のガスコンロを取り出して食事をしました。
翌朝から、またお店に皆で集まって社長以下 スタッフと今後の展開についての話し合いを行いました。
現状は電気、ガス、水道の使え無い状況でお店は出来ないので、お店の営業は無理
でも毎日皆で集まって安否の確認だけしていこうという話しでまとまりました。
そしてその後、全国から集まった多くの人達のおかげで、自分達の住む仙台市中心部は3日ほどで電気が復旧
その後も1週間くらいで水道も復旧する事が出来ました。
そしてその時、同じ系列店に炭火焼肉のお店がありました。
ガスは使え無いですが、焼肉屋なら炭を起こせば営業が出来る。
そこから、IHの調理器具を使用しながら営業出来る店舗も出て来るようになりました。
ただ調理してお客様にお出しできる物も少なく
カレーライスなどがメインに成りましたが
そして自分は焼肉屋さんに配属されて調理にあたりました。
その時は食材も限られていましたし、メニュー自体も少なかったのですが、周りでやってるお店も少なく、爆発的に売れました。
50席ほどのお店が連日満席が続きました。
この時はいらっしゃる方皆さんに心配して下さいました。
そして食べ物が食べられる状況を本当に感謝してくださっていましたね
まぁ中には「俺はわざわざお前らの為にこんな所に来てやっているんだぞ!」
と言わんばかりの方も多少はおられましたけど
その後もしばらくの間は混沌とした状況が続いてはいましたが、有り難い事に何とか仕事をして生活はしていく事が出来ました。
まぁこの後、娘も無事に産まれてきたのですが、その時のお話しは以前にブログでも書いていますので、良かったら観てみて下さいね
こちらもどうぞ!
後もう少しだけお話しは続きます
ぜひお付き合い頂ければ嬉しいです😆
後、ご意見感想も受け付けていますよ!
